6月4日17年今日の糧

礼拝の中で恵を受けよう

ローマ12章15


  私たちの礼拝は、旧約聖書に記されている出来事に基づいています。旧約聖書の礼拝は犠牲の動物を捧げること、これが祭儀の中心でした。これはイスラエルの民が奴隷生活から解放された出エジプトの出来事に起源があります。では、その礼拝はどこで行われるのか?

パウロは神の憐れみが働く場所、そこが礼拝の場所だと、私たちに伝えています。

次に礼拝の中で何を捧げるか。それをパウロは伝えています。旧約聖書では聖別された動物の遺骸が捧げられました。では、キリスト者の礼拝は何をささげるのでしょう。

そもそも「礼拝」という言葉をローマ人は、「腰をかがめる」とか「ひれ伏す」という意味あいを持った語を使っていました。 ところが、パウロは「過越祭、除酵祭の規定を守りそれに仕えること」を意味している言葉をつかいました。それはエジプトの奴隷生活から解放された事を記念して守り続けている祭儀です。キリスト者にとっては、イエス・キリストが与えて下さった主の晩餐です。イエスが自分の体を 生き身の聖なる 神のお喜びになる捧げ物として差し出した。もったいなさ過ぎるこの命の食事を取ること。それが私たちの礼拝の始まりです。

礼拝の中心はイエス・キリストが私たちのために、はらわたが痛み、ついにはその命さえ与えて下さった事を覚えることです。 その時、礼拝をする者は神の前に自らをそのまま差し出します。 そのことを、パウロは「自分自身を生け贄として献げる」という表現で語っているのです。

あなたは今、どのような状況で生きていますか。たとえこんなはずではなかったと、苦しむ現実すら、憐れみ深い神はそのままに変貌させられる。それは具体的な事柄です。すると私たちはこの世界に埋もれて、がんじがらめになってしまうのではなく、私たちが生きているこの社会で、神に変えられた新しい生活を過ごす。私たちの日々の生活の中に、私たちは必ず神の働きを見つける。私たちはその喜びと感謝の中で、人間が通常では知り得ない神の意志を判別出来るようになります。

      神の喜び〜私たちの礼拝

      神の善し〜私たちの礼拝

      神の完全〜私たちの礼拝

だから私たちは神に変貌させられたこの生身の「私」を携えて礼拝に来るのです。

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過越祭の食事(教会では食べていません)

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                 主の晩餐式 パンとブドウ

                

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                    お昼ご飯


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by hiraoka-joyful | 2017-06-04 13:35 | トピックス  

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