カテゴリ:トピックス( 268 )

 

7月23日17年今日の糧

今日の礼拝は

三ツ木芳夫師、三ツ木朋代姉の派遣礼拝でした。

お二人はカナダにあるリッジモンドバプテスト教会にて

8月下旬から日本人集会のお手伝いをされます。

ご夫妻は白石バプテスト教会時代より、協力牧師としても関わってくださいました。現在も様々な形で、平岡ジョイフルチャペルを支えておられます。

宣教は三ツ木芳夫師、証は三ツ木朋代姉でした。

マルコ6章45節から52節の聖書の箇所により、

どのような人生の場面でも、

私たちを心から愛するイエス・キリストが

共にいて下さること。

そのイエスがいつも大きな安心を与えてくださる事を

お伝えいただきました。

また北星学園大学チャペルクワイヤーの皆様による

特別賛美「幸いだ、貧しい人」「喜びに満ちて」の奉仕がありました。

礼拝後はジョイフルガーデンでBBQを楽しみました。

d0224356_13400858.jpg
礼拝後記念写真

d0224356_13395815.jpg
            凄く楽しい BBQ

来週は賛美礼拝です。大麻ベーネ・カルテットの皆さんが奉仕されます。

宣教は大久保法幸執事です


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-07-23 13:43 | トピックス  

7月16日17年今日の糧

理想郷に住む伴侶達

創世記2章15節―23節

 

主なる神は人と向かい合って共に生きるパートナーを造り、人に与えようとします。そして主なる神は、人(アダム)と向き会い、人からもう一人の人を造る決意をします。主なる神は取ります。 人から彼の側面の中から一つを。

その側面には神が与えた対話し応答する性質またへりくだる性質が含有しています。

しかしそのままでは人には片割れがないようになる。その時主なる神はそこを代わりに肉で塞ぎました。驚くことに主なる神は神の肉をそこに与えたのです。眠っている人はそのことを知らないし、その意味も知らない。そしてずっと気づきもしませんでした。しかし私たちはそれが、どのような肉だったかを知っています。人のために鞭打たれ、肉が裂かれ、十字架の上でそのあばらに槍をつき刺された。イエスの言葉を知っているからです。それを聞くとき、最初の人に神が与えた血肉を理解するのです。(マル14:22) 

それから主なる神は、神にとって甚だ善きもの、パーフェクトヒューマンである人を再創造しました。けれどこの再創造にはリスクがありました。イーシュとイシャーが造られるのに、神の血肉が与えられた。なぜなら、神は一人の人を二人の男と女に再創造するリスクを十分承知しておられたからです。人は理解しきれないで、互いを憎む。人は互いを疎んじる。男が女を支配する。女が男に隷属する。女が男を冷遇する。お互いの欲望によって人が結びつく。人はそうなりやすいリスクをいつも抱えています。男と女としてそれぞれに生きる中で、それぞれが関わる中で、人が神の似姿を映し出してゆく。そのために欠くことが出来ない主なる神の事実があります。それはイエス・キリストが自分の命を、取って食べよと人に裂いて与えたことです。

イエス・キリストは男だけのために、女だけのために命を与えたのでもありません。男女で生きる者、男性同士、女性同士で生きる者。そうでない者。子ども。老人。いま孤独に苦しんでいる者。誰かの助けをどうやって見出していいか分からない者。私とあなた。全ての人のためにイエスはその命を与えたのです。ほんとうに、ありがたいことです。私たちはイエス・キリストと共に人として、男として、女として生きて行けるからです。

d0224356_13215697.jpg
d0224356_13223088.jpg
冷たいソーメン具が沢山心も体も元気に


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-07-16 13:25 | トピックス  

7月9日17年今日の糧

神とゆったりしよう

創世記2章1節―3節、4a

神は第7の日に天地創造を完成された。そこに、深い意味が込められています。

 第7の日において、神の創造の作業が完成すること。それは神がそこから離れる、もしくは止めることによって完成されています。神はもはやこれ以上何も付け加えることがないと満足し、創造の業を止められました。けれどそれで神の創造は終わりではありません。本当の完成はその後に来るからです。それはワインの熟成に似ています。ワインは作り手が全ての作業を終え、ワインを樽の中で寝かせることで完成します。

  また神様の安息は、私たちが無意識に行う息継ぎ、息の整えに似ています。例えば被造物全体が一つの有機体、命ある体であると見なすと、息を整えることがとても大切なのが解ります。体が必要としている空気を十分に胚に送り、新鮮な血液が体中に酸素を運ぶ。それだけでなく体が自らを動かす為にだした二酸化炭素を体の外に出す。それを私たちの体は繰り返して行っているのです。ですから息が乱れると体全体が苦しむのです。

  そう考えてみると、神の安息はあってもなくても良いおまけではないと解ります。神は安息する事によって、第七の日を祝福し、聖別されました。そして第7の日があるからこそ、第1番目の日から第6番目の日までが、聖別し、祝福されたのです。

 では7番目の日、神の安息の日においての祝福とはなんでしょう。それはうみ疲れ、絶望し、もう一歩も歩けないもの達への祝福です。産めない、増やせない、満ち足りないもの達は神の祝福から遠いのでしょうか。そうではありません。神は自ら先んじて休み場で憩われました。その場に私たちも行って、息を整えることが出来るのです。なぜなら疲れ果てたあなたの傍らで、全てを投げ出したい私の傍らで、私たちの呼吸に神がそっと合わせてくださるからです。これこそ聖書が伝える第7の日の祝福です。また聖書は神がその日を聖別されているとも伝えています。聖別は安息という事柄においてなされています。神が最後まで徹底的に責任を持ち、愛し、守り、支え続けるからこそ、生きとし生けるものに安息があるのです。

d0224356_18410269.png

一週間は日曜日から、日曜日に教会へ

               

d0224356_18412190.jpg
          今日も暑かった。冷たいラーメンGOOD


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-07-09 18:45 | トピックス  

7月2日17年今日の糧

天と地の間にあるもの

創世記1章26節―31節

 

唯一の神が自分を我々と表現するのは、天地を創られた神に、語りかけ応答する性質があるからです。それは将棋になぞらえることが出来かもしれません。盤上に全く動きがない時でも、棋士は、何時も頭の中で盤上の駒を動かしています。彼等は何十手も先に何が起きるかを、自分が先手となり、同時に後手となって頭の中で画像を浮かべているのです。それと同様に、神がこの世界を創造された時も、神は語りかけ、応答しながら創造の業を進めたのです。始めの一言、「光あれ」と言われた時には、神の中ではこの宇宙、空、海 大地は出来上がっていました。しかし人間の創造は、神の創造の業の中では全く局面が変わった出来事でした。

 人間の創造は、神の中の計り知れない語りかけと応答によって生み出されたのです。そこから導き出された神の決心は、我々にかたどり、我々に似せて人を造る。ということでした。 ですから神に似せられた人間は、語りかけ応答することができる者として造られました。人間だけが、神との間に「あなたと私」という関係を持つのです。

人を神の似姿に造る。それは、状況次第で悪手となる一手でした。その一手が打たれたことで、神が創造された全てのものが、再び虚しくなる危険性があったのです。実際、これほどの愛を受けて創造された人間ですが、素晴らしい善いものとして生きられない弱さを持っているからです。人間は互いに傷つけ合い、時に殺し合う面を持っています。人間は人を愛することよりも憎む面を持っています。けれど私たちがそのことに絶望するために、この聖書が記されたのではありません。

私たち人間は神の呼びかけを無視する罪の性質を取り入れてしまった。だから、本来神の似姿として与えられた対話や応答する性質も失われてしまいます。それは大変孤独なことです。けれども、その私たちに、「あなたは神の形、似姿だ。神はあなたの近くにいる。」という慰めと喜びを聖書が語っているのです。

あなたの耳にこの神の決心の声が聞こえていますか?

そして創世記のこの言葉を、ことばだけでなく具現したのが、私たちが信じるイエス・キリストです。イエス・キリストは天地を創られた神が打たれた究極の一手です。この地上に静かに置かれた神の愛そのものの方が、創世記のこの言葉をこの地上に実現させてゆくのです。


d0224356_13473942.jpg
    教会にある絵本です。
d0224356_13472568.jpg
  今日の冷やしラーメンは絶品でした


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-07-02 13:49 | トピックス  

ジョイフルガーデンの花

d0224356_12093014.jpg
ブドウはまだですね
d0224356_12095279.jpg
                  雨でちょっと倒れてしまいました。      
d0224356_12102201.jpg
                   サクランボも色付きはじめました。

[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-06-30 12:12 | トピックス  

6月25日17年今日の糧

祝福のお土産

ローマ152229

パウロの喜びは、イエス・キリストのことを知らなかった人が、パウロの宣教を通してイエス・キリスト出会うことです。彼等がイエス・キリストに出会い、その地域の教会が福音宣教の中核にまで育ったのを見届け、パウロは、新しい福音宣教の場所を求めていました。

パウロが以前伝道してきたところに留まれば、新しい苦労は背負い込まなくてもよいのです。しかし、パウロにとってイエス・キリストの福音をまだ聞いていない人々がいる場所があるのは苦しみでした。だからパウロは勇気を持って新しい場所を目指そうとしました。そしてパウロはスペインへ福音を運んでいくために、ローマ教会が道の駅になることを願っていました。ローマに行って、そこで一息ついてから、ローマの信徒達の祈りに見送られて旅を続けようとしたのです。

しかしパウロはすぐにはローマに行けないことを、この手紙で伝えます。パウロはまずエルサレムへゆく事を最優先にしました。彼を導いてきたのは、イエスが約束した聖霊です。パウロはその愛に促されて働き続けました。聖霊はパウロに2つの使命を与えていました。

1) 異邦人に福音をくまなく伝えること。

2) エルサレムにいる聖徒に奉仕すること。(援助金を持ってゆく)

教会はエルサレムから始まりました。そのとき、人々は自分たちの財産を売って、共同生活をしました。その資金で沢山の貧しい人々を助け、また多くの伝道者を助けたのです。それは財政的に彼らを窮乏状態に陥れてしまったのです。

マケドニアとアカヤのキリスト者達はエルサレム教会を援助する大切さをよく理解していました。援助それはコイノニアです。聖書の他の個所では「交わり」と翻訳されている言葉です。聖書が語っている交わりとは、「腹を割って、言いたいことが言える仲」というような交わりではありません具体的に分け与えることによって共有する交わりなのです。それをパウロはキリストの祝福が充満するという言葉で表しています。パウロはキリストの祝福という土産をもってローマに行きたいと願ったのです。


                       

d0224356_13380137.gif

       パウロはエルサレムで捕まり、ローマに護送された

                     

d0224356_13381912.jpg
     奉仕日に焼きそばを作って食べました。熊本のスイカも


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-06-25 13:44 | トピックス  

6月18日17年今日の糧

愛をお返しします

ローマ14112

パウロにとっては、福音宣教について益になること、人々が至福に生きる事が最も重要でした。それ例外のことは、すべて小さな事でした。

 ですから、どれほど弱く、未熟で、訓練も不十分なキリスト者でも、パウロは彼等が、イエス・キリストの恵により成長する過程で、真の福音に関係ないことから解放されることを希望していたのです。

だから、人々を裁き、論争の対象とし攻撃する人々に向けて、パウロは、彼等を受入よと命じています。

なぜなら福音の内容そのものより、信仰生活の解釈の違いがどの時代でも、教会の中の裁き、分裂を生み出すからです。これは互いに愛するようにと伝えられたイエス・キリストの言葉と対極にあることです。

 パウロは、キリスト者の生活の様々な事柄は、救われるためではなく神に感謝するためだと伝えます。

人を気にかけるのではなく、イエス・キリストを気にかける生活、これがクリスチャン生活です。パウロは、私たちに他者に向ける目を神に向けてゆくように伝えます。なぜなら、私たちは私たちの全てを知る真実な神に対して、今自分が行なっていることに対して申し開きをしなければいけないからです。感謝の心で生きるキリスト者は、多くの善い行いの実を結んでいます。そして神の裁きの時イエスさまから、「よくやった、忠実な良い僕だ。」とほめられます。特に意識していない善行、誰にも評価されなかった善行に多くの報いがあるのです。その時私たちは、かつて預言者が聞いた主なる神の声を聞きます。

『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』イザヤ4523

その時、私たちは主の前に屈み、主を褒め称えるのです。

d0224356_13160042.png

今日は父の日でした。

                   

                     

d0224356_13191939.jpg
                    豚丼の水菜が味と色のアクセント


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-06-18 13:21 | トピックス  

6月11日17年今日の糧

愛をお借りします

ローマ13810

「隣人を自分のように愛する」この誡めは、モーセが教え、イエス・キリストが明らかにしました。そしてパウロはこの手紙で強調して取り上げています。なぜ自分への愛が他者への愛の基準になるのでしょうか? それは誰でも自分を愛することを本能的に知っているからです。もちろん様々な状況の中で、人間が持っている自分を愛する力が失われ、自分に悪しきことを行う場合もあります。けれど、それは実は人の本質に反しているのです。言い換えれば、真実な神が与えた人間の本質の中に自分を愛する愛が、すでにあるのです。

では、それはどのような愛でしょうか?そのヒントは10節にあります。愛は隣人に悪を行いません。その言葉をこのように言い換えてみると、よく分かります。「私の愛は私に悪を行いません」。真実な神は、本来人が自分自身を傷つけるようにしていないのです。

しかし他者を愛することは、本能の中にありません。それは互いの関係性の中で育てられるものです。しかし残念なことに私たちは、それを育むことが大変下手なのです。

  神が与えた誡め=律法は 隣人に悪を行わないことです。そして私達が、まず神が私達に与えた本来の力、自分を愛する力、自分を大切にする力を用いて他者に接するときに、ただ隣人に悪を行わないだけでなく、隣人を助け、隣人を活かすことが出来るのです。

私たちは、私たちの隣人が能力をもつから愛するのではありません。私たちの隣人が、私たちにあれこれしてくれたから愛するのでもありません。私たちは神がその手で造り上げた者たちです。だから私たちは自分の体を大切にするし、自分を愛します。同様に私たちは神を愛するから、そして私を愛するから、神が造られた私の隣人をも愛するのです。

そしてキリスト者には、この生身の体と別にもう一つの体が神から与えられています。生身の体は、どれほど大切にしてもやがて朽ち果てていきますが、もう一つの体は、朽ち果てることはありません。その体は教会です。イエス・キリストがその命をもって贖い、奴隷状態から解放した一人一人の集まり、自分とイエスの体である教会を私たちは特別に愛するのです。

d0224356_13512489.jpg

今日はウガンダからお客様が来られました。

d0224356_13520073.jpg

           ウガンダのルーとハヤシライスです。

          美味しかった


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-06-11 13:56 | トピックス  

ペンテコステとジョイフルチャペル

ペンテコステとジョイフルチャペル

6月4日はペンテコステでした。これは2000年近く前に、イエス・キリストが十字架に架かりその後復活したことを目撃し、イエスの言葉を信じて祈っていた人々に起こった出来事です。 彼等がイエス・キリストの証人になるために、真実な神が助けを与えました。それはイエス・キリストの全てを明らかにする聖霊です。その時から彼等は、日々イエス・キリストを証し、それを聞いた人々がその証を受け継いで、2000年間途絶えることなく、世界中にイエス・キリストを信じる人々の集い(キリスト教会)が産まれ続けているのです。私たちの平岡ジョイフルチャペルもその様な証人の言葉(聖書)と、聖霊の助けの中で産まれました

平岡ジョイフルチャペルは1963年白石区に設立されました(かつての白石バプテスト教会)。伝道開始して54年になります。初代の牧師T師は、高齢の今も機会があればイエス・キリストを証しておられます。1991年里塚に引っ越し、名前を平岡ジョイフルチャペルと変更しました。それから26年です。昨年は壁や屋根の塗装を塗り直しました。

  真実な神の助けがあるから、支え会い共に歩み続けているのです。

d0224356_16454104.jpg
今年もすずらん咲きました。


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-06-06 16:49 | トピックス  

6月4日17年今日の糧

礼拝の中で恵を受けよう

ローマ12章15


  私たちの礼拝は、旧約聖書に記されている出来事に基づいています。旧約聖書の礼拝は犠牲の動物を捧げること、これが祭儀の中心でした。これはイスラエルの民が奴隷生活から解放された出エジプトの出来事に起源があります。では、その礼拝はどこで行われるのか?

パウロは神の憐れみが働く場所、そこが礼拝の場所だと、私たちに伝えています。

次に礼拝の中で何を捧げるか。それをパウロは伝えています。旧約聖書では聖別された動物の遺骸が捧げられました。では、キリスト者の礼拝は何をささげるのでしょう。

そもそも「礼拝」という言葉をローマ人は、「腰をかがめる」とか「ひれ伏す」という意味あいを持った語を使っていました。 ところが、パウロは「過越祭、除酵祭の規定を守りそれに仕えること」を意味している言葉をつかいました。それはエジプトの奴隷生活から解放された事を記念して守り続けている祭儀です。キリスト者にとっては、イエス・キリストが与えて下さった主の晩餐です。イエスが自分の体を 生き身の聖なる 神のお喜びになる捧げ物として差し出した。もったいなさ過ぎるこの命の食事を取ること。それが私たちの礼拝の始まりです。

礼拝の中心はイエス・キリストが私たちのために、はらわたが痛み、ついにはその命さえ与えて下さった事を覚えることです。 その時、礼拝をする者は神の前に自らをそのまま差し出します。 そのことを、パウロは「自分自身を生け贄として献げる」という表現で語っているのです。

あなたは今、どのような状況で生きていますか。たとえこんなはずではなかったと、苦しむ現実すら、憐れみ深い神はそのままに変貌させられる。それは具体的な事柄です。すると私たちはこの世界に埋もれて、がんじがらめになってしまうのではなく、私たちが生きているこの社会で、神に変えられた新しい生活を過ごす。私たちの日々の生活の中に、私たちは必ず神の働きを見つける。私たちはその喜びと感謝の中で、人間が通常では知り得ない神の意志を判別出来るようになります。

      神の喜び~私たちの礼拝

      神の善し~私たちの礼拝

      神の完全~私たちの礼拝

だから私たちは神に変貌させられたこの生身の「私」を携えて礼拝に来るのです。

d0224356_13320938.jpg

過越祭の食事(教会では食べていません)

d0224356_13334625.jpg
                 主の晩餐式 パンとブドウ汁

                

d0224356_13312056.jpg
                    お昼ご飯


[PR]

by hiraoka-joyful | 2017-06-04 13:35 | トピックス