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2月22日15年今日の糧

神が払った身代金
マルコ10章32-45節

次第に弟子らはイエスの前を歩むようになっていた。その結果
①イエスに近づく者を妨げる。
②イエスを叱る。
③イエスから離れる。
しかしイエスはそれでも福音の奥義を忍耐強く教える。
彼らは、多くの奇跡の業がなされた場所、神の国についての教えが語られた場所、
ガリラヤを去ってエルサレムへ向かってゆく。その時イエスは彼らの先頭に立つ。

エルサレムでは、弟子達への最期の授業がある。
「今=見よ
わたしたちはエルサレムへ上って行く」。
エルサレム そこは
①イエスを裏切る弟子      
②イエスを拒絶する弟子。
③死刑の判決を受ける
④異邦人から侮辱される
⑤十字架に引き渡される
      ―人間の罪が鮮明になるところ
⑥3日目によみがえる
      ―神の愛が全てを覆うところとなる。
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しかしこの最期の授業の最中でも、弟子らはイエスの真実が解らず
的外れな願いを抱く。
そのような彼らが、真の弟子となる事をイエスは望み見ている。
~彼らは後の教会となる群れだ
杯=イエスが受ける十字架の苦しみを味わい。
バプテスマ=死の中に沈められることを経験する。そして弟子らは変えられる。
そして、今もキリスト者にイエスは自分の後ろを歩めよと声をかけ続けておられる。
その歩みの中で
①神の愛を知る。
②愛しい者の存在を知る。
③聖書の真実を知る。
④イエスの真の栄光を知る。
⑤私たちの右側、左側に仕えるイエスを知る。
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by hiraoka-joyful | 2015-02-22 13:44 | トピックス  

2月15日15年今日の糧

らくだは針の穴を通るか
マルコ10章17-31節
イエスはガリラヤからエルサレムの十字架へ「道に出て行く」。
その途中語られた福音の3つの奥義。
① 神の国に入る
② 永遠の命を受け継ぐ
③ 救いに与る
そのために幼子のように福音を受け入れよとイエスは伝える。
そこにある人が来る。彼は永遠の命を獲得するために、守るべき掟をイエスに問う。
彼の人生はひたすら自分の力で良いものを獲得する人生だった。
そこには神の恵が働く余地がない。それは的外れな価値観だ。
「神は何故人間に神の掟を与えたか?」
①救いは既に開かれた
②神の恵に応答して歩むための教え。
イエスの目は彼の深い所を見つめる。そして彼に無償の愛を与える。
その上で彼に欠けている所を教える。
①「持っているものを売り払い」
②貧しい人に施せ
③天に富を積め
④「わたしに従いなさい」=神を愛すること。
この人はイエスの元を去ったが、イエスの愛はこの人の人生にそそがれ続ける。
さらにイエスは弟子らに神の国の真実を伝える。
富んでいる者が 神の国に入る~「人間にできることではない」
しかし神しか出来ないことがそれを凌駕する。
①神が人間になって下さった。~神の恵みの業。
②人となった神が罪を負って十字架につく。~神による無償の愛の業。  

だからイエスの後ろを歩んで生きる。
自分の十字架を担いつつ生きる。
そこに
①百倍豊かな人生が与えられる。
②後の世では永遠の命を受ける。
キリスト者は互いが後
先になりながら共に神の国へと歩む民。
礼拝の中で。日々の歩みの中で。互いの祈りの中で。
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by hiraoka-joyful | 2015-02-15 15:31 | トピックス  

2月8日15年今日の糧

子ども達をイエスのもとに
マルコ10章13-16節

人々が子どもたちをイエスの元へ
触ってもらうために=祝福してもらおうと連れてきた。
それを見た弟子たちはいらだち、 叱り、追い返そうとする。
その前にイエスは受難と再生の宣言をしており。
この時、弟子達の思いは次のようだった
①誰が敵か味方か解らない。
②自分達の流儀に合う者を味方にしたい。
イエスの元に来る多くの群衆は、イエスの都合など考えない。
自分達の祝福だけを求める、そして去ってゆく者達だった。
それは、弟子らの目から見れば煩わしいもの。
その人々を弟子達は叱った=ペテロの叱責と同じ(マル 8:32)
イエスの憤り=ペテロへの叱責と同じ(マルコ8:33 )
神の国の働きを邪魔する事をイエスは憤る。
しかしイエスは憤ったままではない。
イエスは弟子たちがなすべき事を伝える。
①イエスの元にくる子どもを、そのままにしておくように。
②子どもを妨げるな。
イエスの愛の元に子ども達が来るのを妨げるな。
神の国はこのような者たちのもの。
神の国は神様が恵みをもって私たちに関わる所。(マルコ1:15)

ではこどものようにとは?
①低い価値のもの
②弱く助けが必要なもの
私達はイエスの愛がなければ
①神の目には的外れに生きる愚かな者。
②神の前に何の価値もないもの。
だから空腹の幼子のように神の国を受け入れる。
 
その時、私達もまたイエスのように人を喜んで迎え入れる者になる。
お互い一人一人を喜んで迎え入れる場所 それが礼拝となる。
そこに神の国がある。
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by hiraoka-joyful | 2015-02-08 13:54 | トピックス  

2月1日15年今日の糧

神が結び合わせたものは離せない。
マルコ10章1-12節

カファルナウムからガリラヤ地方を去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行った。
それはエルサレムへの道。イエスはここで十字架につけられる。

このヨルダン川の向こう側=ペレアで、ファリサイ人がイエスに質問をした。(2節)
この質問は、ヘロデ・アンテパスの支配下ではタブー。
なぜなら彼は兄弟の妻ヘロディアを娶っていたから。
バプテスマのヨハネは彼を断罪し、殺された。
だからこれは、イエスを窮地に落とすための質問だった。
しかしイエスは質問者に問う。「モーセは何と命じたか」と
それは聖書に何と書いてあるか という問いだ。
信仰の事柄は聖書に書いてある。
聖書をどう読み、どう受け止めるかイエスはそれを質問者に問う。
ファリサイ派は聖書をよく学んでいた人々だった。
申命記24:1、この箇所は教えの解釈について、様々に議論があった。
しかし聖書を知っていても、神の真実が読めていないとイエスは指摘する。
「心が頑固」=石の心 それは神の慈しみを受け止めない心。
さらにイエスは結婚、夫婦についての聖書の教えの根本を言う。
~神の意志がそこに働く(創2:18 )
①人間は独りで生きることは出来ない。
②自分に合う助ける者と共に生きる。
「彼に合う助ける者」~「向かい合う」お互いに相手を見つめ、共に生きる。
なぜなら、神が結び合わせてくださったものだから。 
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そして今、教会はイエスの宣言を受け止める。
イエス・キリストは真実な愛で教会を愛した。
(エペソ5:31、32 )                 
教会とイエス・キリスト、それこそ神が結び合わせたもの。
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by hiraoka-joyful | 2015-02-01 15:36 | トピックス