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3月29日15年今日の糧

イザヤ65章16節―18節
父の神の真実


棕櫚の日曜日から始まる受難週
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私達は、神=真実な方 アーメンの神 だと確認する。
1.求められることを待ち望む神
BC587年 バビロン捕囚  50年後 帰還
しかしそこはユートピアではない。
バビロン捕囚後のユダヤ人達は不平と不満が神に向かう。
彼らに神は、神自身と神の言葉を求めるように語り続けられた。
2.求める者を祝福する神
祝福とは回復することから始まる。その預言がある。
アコルの谷(ヨシュア7:24‐26)=「苦悩の谷」が「牛の群れの伏す所となる」。
ここに裁きと祝福交互の預言がある。
そして神の矛盾、神の苦悩がある。
3新しい天と新しい地の幻を与える神
主なる神が信仰者の呼びかけに応じる。
そして神は真の創造者として働かれる。
新しい天地の創造をする。
新しい生き方を創造する。
幻を見て喜ぶ民を創造する。

私たちが幻を持つことの意味
私たちは神と共に、神の国の幻を見る。
それは、受難と復活によってうまれた新しい平和。その完成がある。
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(イザヤ65:25)
イザヤ65:24「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」。
2014年度平岡ジョイフルチャペルに起きた事柄。
礼拝の中で
祈祷会の中で
さまざまに 福音宣教の業を担い支え合う。
真実な神の恵みがここにある。
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by hiraoka-joyful | 2015-03-29 14:36 | トピックス  

3月22日15年今日の糧

イエスを乗せる子ロバ
マルコ11:1-11節
イエスはエルサレム、十字架の苦難へ進んで行く。その時通過された場所。
①オリーブ山~エルサレムの東 
  メシアが入るという預言。
②ベトファゲ=イチジクの家 
  巡礼者はベトファゲで身を清める。
③ベタニア =貧しい人の家
  香油を注がれる/最後の晩餐
イエスはエルサレムへロバに乗って入場する
それは、イエスの強烈なメッセージをあらわしている。
ロバを調達するのに2人の弟子が遣わされた。
弟子達が託された言葉。「主が必要とする」その意味は何か?
受難と復活の後に生まれた教会の中ではイエスは主(ὁ κύριος)と呼ばれる
イエスは教会の中心。一人一人の信仰の中心。そして 主として人々に関わるから。
それを、イエスは子ロバに乗るご自分の姿であらわされた。
1、王として
ゼカリヤ14章4節a
「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれ る」
2、貧しい者として ~ロバにのる姿
子ロバに乗る~弱々しい、滑稽な姿。
3高ぶることなく (ゼカリヤ9:9,10)
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イエスは十字架の死によって私達の罪に勝ち、 主の教会の群れを生かすため復活した。
平和の主イエスのもとにある新しい神の民である教会はイエスを喜び続ける。
いま私達は平和の主の下に生きる
イエスを喜びつつ前を行き後に従う。 主イエスをほめたたえる者となる。
イエスと共に自分の十字架を負う
誰かのために精一杯生きる。
教会の友らと信仰に生きる。
神の国の平和が実現するために働く者となる。

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by hiraoka-joyful | 2015-03-22 15:38 | トピックス  

3月15日15年今日の糧

牧師は15日までタイでした。先週はタイの児童福祉施設バーンジンジャイで奉仕しました。
昨年子ども祝福礼拝で献げられた平岡ジョイフルチャペルからの献金もお渡ししました。
      今週の礼拝宣教は協力牧師でした。

「私はだれ?」
自分を見失ったモーセのお話し
出エジプト記 2章11-15節

  旧約聖書に出てくるモーセの名前はどこから来たのだろう。
彼はヘブル名ではモーシェと呼ばれ、エジプト名では「モーセ」と呼ばれている。
その意味は、エジプト語で「(神名)+生んだもの」だ。
   モーセの生い立ちは ヘブル人(奴隷)として生まれ、エジプト人(王子)として育った。これは全く相反する立場だ。その立場に気付いた時から彼は「自分はどこに帰属するのか」という問題に苦しんだ。
そのきっかけとなった事件がある。
2:12 モーセは辺りを見回し、だれも(人が)いないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。
この事件は彼にアイデンティティの危機をもたらした。それは単に、へブル人とかエジプト人を超えて神の前に自分を見失った危機だった。
なぜなら、彼も含めてこの場所に彼は真の「人」を見つけることが出来なかった。
では真の「人」はなにか。
ここには三種類の人間が取り上げられている。
1. ヘブル人:奴隷階級、セム人
    2. エジプト人:支配階級、ハム人
    3. 人(イーシュ):神の似姿に造られた人(創1:26)
   人種や身分を超えて、人間の生命の価値を大事にする人。

アイデンティティとしての人を見失い、殺人者として荒野をさまよい、その後羊飼いとして淡々と生きていた彼に神が関わってくださり、彼に神からの使命を与えられた。
   その時から彼は、へブル人、エジプト人の枠を超えて真の「人」、真の神を愛する人として生きるものとなる。その時から彼の名モーセが新たな彼のアイデンティティとなる。
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by hiraoka-joyful | 2015-03-15 17:27 | トピックス  

3月8日15年今日の糧 in タイ

 今日牧師は、西南大学神学部のK姉M兄と共にタイ国のアユタヤバプテスト教会の礼拝に出席しました。平岡ジョイフルチャペルの宣教はM先生でした。

「愛で出来た岩」
マタイ 7章24-27

世界遺産になっている古都アユタヤに一つの教会がある。十数年前までは礼拝に集う方もまばらとなり、教会堂は壊れかけていた。誰もがこの教会に未来はないと感じていた。しかし神は教会を愛し、ここに仕える方を一人、二人と集め、次第に礼拝人数は増えて行った。その中で会堂の大修築がされた。
2011年秋、タイ全土に雨が降り続き大洪水になり、アユタヤ教会も2メートルの水に一月つかった。しかし教会に集う者はもはや絶望しなかった。水につかった教会の姿を見たとき、彼らは、主なる神が再び教会のために何かの働きをしてくださると信じていた。そして困っている近隣の方たちのために手助けした。また色々な教会から食べ物、水、お金の助けが届いた。今、アユタヤ教会は洪水以前よりも多くの方が集まり、会堂もさらに広がっている。
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イエスがこの聖書の箇所で語ったたとえ話の真意がこの事実にあります。このたとえのとおり賢く生きようとしても、生ききれない私たちです。岩を削って土台を掘る力も持ち合わせていないかもしれません。しかしこのたとえを語られたイエスは、自らを私たちの土台に投げ出す覚悟で語られた。だからこのたとえを聞いた者は、イエスの言葉に内にある覚悟に、神の権威を感じたのです。
イエスは、私たちの巌です。その巌はイエスの愛の塊です。
その愛をもって、イエスは大水が来たとき、私たちが倒れてしまわないように、私たちの足元をしっかり支えておられます

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by hiraoka-joyful | 2015-03-08 23:51 | トピックス  

3月1日15年今日の糧

何をしてほしいのかと聞く神
マルコ10章46-52節

エリコの町を通り過ぎるイエスそこに
盲人が道端に座っていた。その当時盲人は神の恵みから外された者
と言われていた。(サムエル下5:8)
彼はイエスに「ダビデの子イエスよ、私を憐れめ」 と叫び続け、言い続けた。

しかし、彼は周りの人々から拒絶された。ところが盲人は拒絶をものともせず叫ぶ
「ダビデの子」=「救い主=キリスト」
彼は、憐れみの神を求める。

イエスは彼の叫びを聞く。 イエスは歩みを止める。
イエスは仲介者を用いる~イエスの弟子訓練
弟子達はイエスの意思を伝えるものとされる。
①「安心しなさい」
   マタイ9:2 「元気を出せ」
   ヨハネ16:33 「勇気を出せ」
②「立ちなさい」
③「お呼びだ」=「お前を呼んでおられる」
イエスへの方向が示される。
この招きにバルティマイは上着を脱ぎ捨て、踊り上がった。
上着=彼の生活の全てを覆う物。それを彼は捨てる。
盲人は、癒される前にイエスによばれて躍り上がった。

イエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」、と尋ねる。
バルティマイの願いは、この問いかけに、
「目が見えるようになりたい」。としっかり伝える。
 彼は大切なわたしの先生を見出した。
だからイエスの道を従って行く。
それは、そのままの彼を愛し抜いて受け入れるイエス・キリストとの出会いだった。
イエスは私達にも声をかける「あなたは何をしてほしいのか」。
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by hiraoka-joyful | 2015-03-01 15:52 | トピックス