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11月29日15年今日の糧

神はどこまで下るのか
マルコ15章33~47節

イエスの十字架の死刑は見せしめでした。
そして暗闇が世界を覆います。それは人間のゆがんだ罪の闇でした。 
イエスは、十字架上で「わが神なぜ、わたしを見捨てたか」と叫びます。
それは神自身が人のうめき苦しみを担った叫びでした。イエス・キリストは
絶望を味わい尽くしました。けれどなお神を信頼し続けた叫びでもありました。
十字架には完全に父なる神を信頼しきった愛の勝利があらわれました。イエスの叫びは全世界、黄泉にまで届きます。そうしてイエスは神の息吹を後のキリスト者の群れへ吹きかけたのです。 

そのしるしとして神殿の幕がまっ二つに裂けました。こうして
1)神と人を隔てていた人間の罪が赦された。
2)神を「アバ父」と呼びかける。
3)どのようなことも父なる神に伝える。
4)私たちに希望の光が差し込んだ。
5)ともに礼拝をささげる群れとなる。
6)神がすべての人の父となることを選ばれた。
 
イエスの十字架だけが神の愛の真実を見せます。
愛されている子として生きる平安が私たちを満たすのです。
私たちはイエスの十字架と葬りを見つめ証人となります。
そこにわたしたち自身の十字架と死をみつめます。
このわたしたち一人一人を救いあげて、さらいあげてくださる。
イエスキリストを私たちの希望として、目の前に置き続けるのです。
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by hiraoka-joyful | 2015-11-29 13:34 | トピックス  

11月22日15年今日の糧

十字架の側にいた人々
マルコ15章16~32節

イエス・キリストの処刑はローマの兵士によってされた。まず200人、官邸の警護兵が集められる。それはイエスが徹底的に弾圧すべき反逆者だから。紫の服、茨の冠
をつけさせ、彼らはイエスを痛ましい道化師にする。このようにねじ曲がった人間の罪は、人の尊厳を踏みにじる。

死刑囚は十字架を担がされて歩く。イエスは十字架を担いでゴルゴタへ歩いた。そこにクレネ人シモンが来て強制的に十字架を負わされる。十字架は残酷な処刑方法だった。だから麻酔作用がある飲料を与えられる。しかしイエスはそれを拒む。イエスはすでに、信仰者に新しい契約を与えるために苦しみの杯を飲み干したから。

イエスを冒涜しののしるものが十字架の側に集まる。
1)イエスの右と左には強盗がいた。
2)通りかかったものがいた
3)祭司長や律法学者がいた。
彼らはイエスを冒涜する。
「十字架から降りて自分を救ってみろ。」と
自分の十字架から降りるものは勝者。
十字架につくものは敗者~嘲りの対象
しかし私たちを救うため
イエスは十字架を降りない。

イエスの十字架
苦しみをなくすためにあるのではない。
その苦しみを背負うためにある。
この十字架のイエスこそ私たちの証だ。
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by hiraoka-joyful | 2015-11-22 14:22 | トピックス  

11月15日15年今日の糧

イエスの十字架を願った人々
マルコ15章1~15節

イエスはついにローマの総督ポンテオ・ピラトの下に引き渡される。
その出来事は使徒信条の中で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、教会の信仰告白になった。イエスはまさに彼が生きた時代の現実の中で裁かれ、苦しんだ。訴えられたイエスの罪状はユダヤ人の王と吹聴していることとされた。これは、祭司長たちが問題とした「イエスはキリスト」である、こととは違う。パレスチナ地方の反乱を背景にして。ピラト(権力者)には反逆者が問題だったから。

しかし祭司長たちの訴えにイエスは沈黙を貫く。では、イエスは誰なのか。
後のキリスト教会はその姿に、苦難の僕の姿を見出す。(イザヤ53:7)
その沈黙はピラトすらも動かす。彼は死刑囚への恩赦として、イエスを釈放しようとしていた。そこにもう一人の囚人バラバが登場する。群衆はユダヤ人の権利として恩赦をもとめる。ピラトは危険分子のバラバを釈放したくなかった。
しかし群衆はバラバの釈放を求める。彼らもイエスが愛した者たちだった。
人のゆがんだ罪が最も大きく働くのは、愛を否定することだ。
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イエスは無抵抗のまま十字架への決定を受け入れた。そこは
1)イエスを捨てる父なる神の手
2)イエスとともに苦しむ父なる神の手だ。だからこそ
十字架は互いを支配しようとする力を裁ち切る。
十字架は互いを受け入れてゆく新しい関係を紡ぐ。
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by hiraoka-joyful | 2015-11-15 13:33 | トピックス  

11月8日15年今日の糧

「ルツに見るアブラハムの信仰」
ルツ2:11-12
2章11節 ボアズは答えて言った。「あなた(ルツ)の夫(キルヨン)がなくなってから、あなたがしゅうとめ(ナオミ)にしたこと、それにあなたの父母や生まれた国(モアブ)を離れて、これまで知らなかった民(イスラエル)のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。
創12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

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 ルツ記はボアズとルツの出会いを中心とした物語です。アブラハムが神さまに促され、その言葉を頼りに新しい旅に出立し、苦闘しながら新しい人生を歩みなおしたように、ルツもまた、ナオミのこと、またモアブ人という偏見を抱えながら、故郷を捨て苦闘していました。
 ボアズは、ルツの生き様の中に、自分たちの父祖アブラハムの信仰を見ているのです。
ボアズは血肉や血筋をみるのではなく、信仰を、その生活をみます。ルツこそが、アブラハムの子孫であり、神の民の歴史に連なるに相応しい人考えたのです。そして物語の最後にルツをめとりました。

 ルツ記において、神は二つの方法で働きます。一つは偶然と思える出来事を通してです。偶然を通して、神は、ルツとボアズとの出会いを演出されました。もう一つは人々の思いや信仰を通して働かれるのです。ボアズの善意、信仰をとうして、神は働き、ボアズとルツとが結ばれることで、神の民の歴史が作り出されていきます。ルツとボアズの間からダビデが生まれ、そしてイエス・キリストがお生まれになります。
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by hiraoka-joyful | 2015-11-08 13:52 | トピックス  

11月1日15年今日の糧

鶏が鳴いた後に何がおきるか
マルコ14章66~72節

イエスが裁判を受けている間、ペトロは大祭司の屋敷の中庭まで行き、人々の間に紛れ、火に当っていた。 そこに大祭司に仕える女中の一人が近づいてきた。それは偶然ではなくそこに悪意があり、ゆがんだ罪がある。イエス・キリストへの憎しみがある。それは、イエスを孤立させようと働いていた。
イエスは故郷ナザレを出て行き、イエスにとっての家族は、神の国の福音を聞く人々となった。ペトロもイエスの家族だった。
しかしペトロはそれを否定した。

さらに悪意は他の弟子も巻きこんでゆく。
彼らは、イエスが呼び任命したもの。イエスが家族としたものだ。(マルコ3:16-19)
悪意をもってペトロに迫るものの言葉に、ペトロはイエスとともに歩んだガリラヤでの日々を否定した。

さらに呪いの言葉をもって誓う。
ペトロはイエスを徹底的に否定する。それは
1)自分の仲間。
2)自分の人生。
3)自分自身。を否定することになる。

そこにイエスの言葉が働く。
真実を込めて言った言葉~アーメン
イエス・キリストは一人一人を深く知る。
イエス・キリストは一人一人を深く愛す。
イエス・キリストはガリラヤでの日々を回復し、神の国に生きる使命を与える。(14:28)

ペトロは教会で証続け、
イエスの愛と救いに泣き続けた。
 
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by hiraoka-joyful | 2015-11-01 17:05 | トピックス