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2020年2月16日「大牧者なるイエス 我らを導くその声」

宣教:「大牧者なるイエス 我らを導くその声」
宣教者:エイカーズ・愛先生(小樽バプテスト教会牧師)
聖書箇所:ヨハネによる福音書 10章11~21節

イエスはファリサイ人たち、弟子たちとエルサレムにいた。
直前の9章最後のところでファリサイ人に、あなた方が見えると言うところにあなた方の罪があると宣言された後のおはなし。

イエスさまは御自身のことを、わたしは良い羊飼い。と教えられた。羊飼いは時に夜、火を焚きながら羊の番をし、狼から羊たちを守る。狼は羊を奪い追い散らす。狼とはわたしたちの内にある死への恐れ、不安、絶望。

死より甦られたキリストは、新たな命をその身に帯びて大牧者として、わたしたち羊を牧していてくださる。

羊飼なるイエスさまの御声に聞き従うこと、イエスさまの牧場である教会、礼拝の場に祈りを注ぎ心を傾け、神さまがその群に託そうとしておられる将来と希望とを与えようとされている御計画を受け取る、そのために共に祈り語り合うことを感謝しつつ喜んで行おう。

やがてわたしたちも加えられてゆく、その御国ですべての民と合流し共に賛美を高らかに歌うその日まで、いつも喜び祈り御言葉に聞こう。


来週2/23(日)の宣教予定者は三上章先生です。


# by hiraoka-joyful | 2020-02-16 12:14 | トピックス  

2020年2月9日「マルコ福音書のイエス (12)~「罪」という風評の放逐」

宣教:「マルコ福音書のイエス (12)~「罪」という風評の放逐」
宣教者:三上章先生
聖書箇所:マルコによる福音書 2章5~12節

体に麻痺のある男性が,四人の男性によって担架に乗せられ,イエスの目の前につり下ろされた話の続きである。
イエスは麻痺のある男性に,「あなたの罪の数々は赦されている」という,一種の罪の赦免の宣言を行った。宗教の締め付けが強かった当時,罪の赦免宣言は神の専売特許であり,人間はだれもやってはいけないことであった。そういう状況の中で,ただの人であるイエスは赦免宣言を行った。ただし,「あなたの罪の数々は赦されている」と言っただけであって,「私はあなたの罪を赦す」とは言っていない。とはいえ,「あなたの罪の数々は赦されている」というだけでも,十分な挑発であった。なぜイエスはこのような発言をしたのであろうか?

障がいというあり方を罪に結びつける風潮を放逐するためであった。
岩波新書編集部編『戦後を語る』(岩波新書,1995年)所収の,安積 遊歩(あさか・ゆうほ)「中国,シベリアから帰った父と車イスの私」によると,彼女が30台半ばの頃,父親が末期ガンになった。そこで,お父さんに聞けるだけ聞こうと試みた。
「私の障害について,私が生まれたとき,お父ちゃんはどう思ったの?」父親の答えは,「おまえが生まれたときには,その萎びた足を見て,天罰が下ったのだと思ったものだ」であった。可愛がられていた父親の言葉だけに,心にぐさりときたと,安積さんは述べている。
「天罰が下った」などとは、根も葉もない俗説に過ぎないが,今でも風評的に広まっている。
イエスの時代も同じであった。体の障がいはさまざまな「罪」に結びつけられていた。神殿参りをしないから。神殿税を払わないから。安息日に仕事をしたから。神の名をみだりに唱えたからなど,今日ではとうてい罪にはならないような行為である。そういうのが他にも数多くあった。

それゆえ,イエスは「罪の数々」と複数形で言ったのである。そういった宗教上の罪が巷に横行し,人々を苦しめていた。その苦しみから解放してあげるのが,本来,宗教家たちの役割であるが,彼らは罪という名の風評を放逐しないどころか,むしろ助長していた。
イエスの言いたいことは,世間では障がいをもつ人を見ると,なんでもかんでも罪のせいにするが,そんなことはない。風評などに惑わされてはならない。罪のせいなどではない。なんなら言ってあげましょうか。「あなたの罪の数々は赦されている」とでも。罪という風評など消えてなくなれ!これがイエスの真意であろう。


来週2/16(日)の宣教予定者はエイカーズ・愛先生です。

# by hiraoka-joyful | 2020-02-09 13:16 | トピックス  

2020年2月2日「何と幸いなことか-わたしの娘が生き返った-」

宣教:「何と幸いなことか-わたしの娘が生き返った-」
宣教者:三ツ木芳夫先生
聖書箇所:ルカによる福音書 8章49~56節

本日は会堂司ヤイロとその娘が、お話の中心となります。
ただその途中で、12年間も長血で苦しめられてきた娘がいやされる話が挿入されていますが、本日はその事実に焦点をあて、同時に大切にしていた娘の死に向き合わざるを得なくなったヤイロに対して「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」(8:50)との主イエス様のお言葉と、死んだ娘に対しては、その手をとって「娘よ、起きなさい。」と呼びかけました(8:54)。
生きている父親、死んだ娘のそれぞれにかけられた言葉に私たちは何を期待していくのでしょうか。


来週2/9(日)の宣教予定者は三上章先生です。

# by hiraoka-joyful | 2020-02-02 13:07 | トピックス  

2020年1月26日「マルコ福音書のイエス (11)~「信頼」の構造」

宣教:「マルコ福音書のイエス (11)~「信頼」の構造」
宣教者:三上章先生
聖書箇所:マルコによる福音書 2章1~5節

1節に「日々の後」とあるが,おそらく数日間であろう。これらの日々については,イエスが何をしていたかは書かれていない。おそらく特筆すべき活動は行わず,骨休めをしていたと思われる。イエスにも休息は必要であった。休む必要がある時は,休んでよい。

2節に,押し寄せた大勢の人々にイエスは,「その言葉」(ホ・ロゴス)を語ったとある。それは温かい心から出てきた温かい言葉であろう。イエスという人は,お地蔵さんのような人だと思う。地蔵菩薩は,あの「賽の河原」の仏教説話と関係がある。親に先立って亡くなった小さい子どもが,この河原で母親や父親をいとおしみ,小石を積んで塔を作ろうとするが,石を積むとすぐに鬼がきてこわしてしまう。
この説話は昔から「地蔵和讃」として庶民のあいだで歌い伝えられてきた。「お母さん,お母さん」と泣き叫ぶ幼子を鬼は容赦なくいじめ続ける。この苦しみをどうしたらいいのだろうか。
「地蔵和讃」は次のようにいう。
 地蔵菩薩にまさるものはない。
 遥か谷間の彼方から 光り輝き尊いことに 幼子の前にお立ちくださり 
 いわれた
 もう泣かなくてもいいよ 幼子たちよ 
 おまえたちは短いいのちで 冥土の旅にきた
 生ける者の国は冥土から遠く離れている
 わたしを冥土の父母と思って過ごし 頼りなさい
 こういって 幼子を着物の裾の中にかき入れ
 まだ歩けない幼子を手に持つ杖の柄に取りつかせ
 慈しみに満ちた胸に抱きかかえて撫でさすり
 憐れみたまう なんとありがたいことか
 子どもに先立たれて悲しければ 西に向かって手を合わし祈りなさい
 残された私のいのちが終わるときには 子どもと一緒に天国に導いてください
 地蔵菩薩さま 朝に夕に仏壇に念仏を称えなさい 南無阿弥陀仏と
 ※「南無」はインドの言葉のnamasに由来し,「おまかせします」という意味。

 イエスの口から出た「その言葉」とは,なにかそのような温かいものであったと思う。 

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来週2/2(日)の宣教予定者は三ツ木芳夫先生です。


# by hiraoka-joyful | 2020-01-26 13:12 | トピックス  

2020年1月19日「和解・平和への導き」

宣教:「和解・平和への導き」
宣教者:金子弘先生
聖書箇所:マタイによる福音書 5章43~44節
     コリントの信徒への手紙 二 5章17~21節

教会という場で初めて耳にした聖書の箇所がマタイ5章43~44節で、イエスの言葉に物凄い衝撃を受けました。自分の生い立ち、戦時下の貧困からして、愛や憐れみなど全然なく、自分以外は敵ばかりだった者にとって、詭弁、理想、空想 、夢物語でしかないと逃げたい思いでした。その一方で何やら言葉に表せない不思議さを感じさせられ、それ以来、聖書と向き合ってくる中で、イエスの平和的和解に興味を持ち、それが生涯課題の一つになりました。

サンスクリット語に『アヒンサー』という言葉があるのを、原発課題に取り組んでいる方から聞きました。「命あるものを傷つけない」という意味だそうです。何億万年というスパンで起こる自然界の呻きと災害、絶え間ない闘争、上に立つ者の不義不正の世にあって、「いのち」「こころ」「人格」「存在」「弱い立場にさせられた人々」が、何と安っぽく、軽視され、疎外されていることでしょうか。

そのような中でのイエスの平和的和解の「ことば」とその「生き方」は、何がどうあれ「いのち」にかかわり、また「永遠のいのち」に繋げられる信仰指針ではないかと思い、非常な困難さがありますが、さらに、イエスの深遠なことばに向き合い、実践できればと願っているのです。

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来週1/26(日)の宣教予定者は三上章先生です。

# by hiraoka-joyful | 2020-01-19 12:53 | トピックス