10月14日18年今日の糧(子ども祝福礼拝)

全ての子ども達は神を讃える

詩編8編1節-10節

詩人が見ている天と地は、この地に私達と共におられるアドナイという神の名を呼び合っています。詩人にとってそれが賛美の始まりです。ではこの方、アドナイへの賛美はまず誰から歌われるか。全地の筆頭にあげられたのは、幼子、乳飲み子の口です。詩人ははっきりと伝えています。子ども達の賛美こそ、全地の中で最も力があることを。

それは基板であり、砦だと伝えています。その砦は多くのもの達の攻撃から、守る砦です。

お前の神はどこにいる。お前は神に苦しめられ、捨てられている。

神も大事かもしれないが、現実に目を向けよ。

苦境は自分の力で切り抜けるしかない。ETC

このような声が、教会の外だけでなく、教会の内側にも、信仰者の内側にも響くとき、幼子の賛美はその様な惑いから私達大人を、神の名に引きもどします。すると不思議なことが、私達の中に起こってきます。

自分達を肯定するために主なる神に敵対することしか出来なかった人々の罵りや悪態や世の中を呪う言葉すら、幼子の賛美は鎮めると、詩人は伝えています。

私がこの度参加したアジアキリスト者女性会(ACWC)は、アジア諸国で深刻な子どもの人身売買の問題に60年取り組んで来ました。今回のバンコク大会は60年記念大会で、アジア諸国から150名ほどの委員や陪席が参加しました。オープニングで賛美を歌ってくれたのはミッション系学校の子ども達でした。子ども達の賛美によって、長旅で疲れていた参加者の心がほぐされました。

土曜日6日、私はバーンジンジャイを訪問しました。小さな借家で子どもの児童福祉施設を開き続けて20年。今広い敷地と、建物が祈りの中で与えられていました。最も貧しく、苦しみを受けた多くの子ども達を愛する先生方が、彼等の口に主なる神の名前を呼ぶ力を戻し、彼等の口に賛美が生まれてきたことによって、彼等自身を取り巻く環境が変わってきたのです。訪問した日は土曜日の礼拝が行われていました。その日礼拝を共に守っていた人々がいました。彼等は教会のメンバーではありません、パタヤの繁華街にあるバーの人々です。入れ墨、強面の人々が喜んで仕え、子ども達に食事を提供していました。子ども達と喜んで賛美を歌っていました。幼子の賛美が生まれるとき、このような大人達の心にも、主なる神が自分をも愛していることが伝わっている。

これがまさに、幼子の賛美が生み出す驚きの事実です。

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     今日の子ども祝福礼拝の様子
       
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     ちらし寿司です


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# by hiraoka-joyful | 2018-10-14 14:08 | トピックス  

10月7日18年今日の糧

10月7日の宣教は、オープンドアチャペルの協力牧師であるジェームス・アリソン師でした。ヤコブ書1章2〜12節から「主の備えの中に生きる自由」について語って頂きました。牧師はタイバンコクで開かれたアジアクリスチャン女性の会(ACWC)に参加する為3日(水)から7日(日)までバンコク在住でした。7日はタイ福音聖書教会での宣教でした。
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大会の様子
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バンコク神学校訪問
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バーンジンジャイ訪問
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7日の昼食から

次週礼拝の中で主の晩餐式と子ども祝福式があります。

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# by hiraoka-joyful | 2018-10-08 19:48 | トピックス  

9月30日18年今日の糧

命を取られるその前に

士師記162331

サムソンはペリシテの男達よりも、ユダヤの男達よりも深い真実な愛情を一人の遊女に捧げました。それは、ペリシテでもユダヤでも社会通念からすれば馬鹿らしいことです。愚か者のする事です。サムソンはそうやって、そのような愚か者を憎む社会から抹殺されようとしているのです。彼を許さないペリシテ人から目玉をえぐり出されて、生涯の中で一番惨めな姿になっています。

では神アドナイはどこに行ったのか。神アドナイは真っ逆さまに落ちてゆくサムソンに先んじて自らが彼のどん底に先回りをされたのです。神アドナイはサムソンを見捨て去ったのではなく、先にサムソンのどん底に出発されたのです。もともとの言葉は逸れるdepartと言う意味です。汽車や飛行機が目的地に出立するときに使う言葉です。神アドナイは先んじてゆくために出立されました。

私達の神は、私達の苦しみに先んじて出立される神だからです。

そして天地を創られた素晴らしい神アドナイは、サムソンと共に笑いものにされていました。

当時の戦は、彼等が信じている神と神との戦いであると思われていました。ですからサムソンを捉まえたペリシテ人は、自らの神ダゴンの前でサムソンを虫けらのように扱い、そのことでサムソンの神、アドナイを虫けらの神だと笑いものにするのです。そうやって支配者は、被支配者の尊厳を徹底的に踏みにじるのです。神アドナイが、自分のために馬鹿にされ笑われている。それはサムソンに耐えがたい事でした。ですからサムソンは最後の力を振り絞って叫びます。サムソンは神アドナイに、私を思い起こせと叫び求めました。たった一度自分を強くしろと。その時神アドナイはどこにいたでしょう。冷ややかに上からサムソンを見ながら、サムソンが苦しみ抜いて神アドナイの名を呼ぶと、事をなしてやろうと待っていたのでしょうか?

いいえそうではありません。神アドナイはその様な駆け引きをする方ではありません、神アドナイは既にサムソンのどん底に先におられたのです。ですからサムソンが叫び求めたその時に、速やかにサムソンと共に働いたのです。

  ここでのサムソンの死は惨めな姿です。ただ神アドナイがそのサムソンと最後まで共にいて下さった。彼の破れかぶれの人生に、神アドナイが共にいて下さった。これが、サムソンの物語が伝えていることです。

 

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十字架に、私達の苦しみの底に先んじる神の姿がある
            
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暖かい蕎麦にホッとしました。


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# by hiraoka-joyful | 2018-09-30 13:48 | トピックス  

9月23日18年今日の糧

祈る人の泉

士師記151420

サムソンは生まれる前から神のものとされていました。そのことを表しているのが「ナジル人」という言葉です。聖書が伝えるナジル人は「特別な誓願によって『神にささげられ、聖別された人』です。サムソンの両親は彼をナジル人として大切に育てて来ました。しかし成長したサムソンは、そのような両親の期待通りには生きられませんでした。

 サムソンの中には葛藤がありました。

 サムソンが与えられている父からの誡めと

 サムソンが見出したペリシテ人の女性への思いです。

 サムソンはその二つの現実の間で揺れ動いています。どちらにもサムソンを本当に受け入れる場所はありません。女の目からすればサムソンは女を嫌っているし、父の目から見ればサムソンはイスラエルの掟を無視しているのです。当時ユダの人々はペリシテ人の支配下にありました。サムソンだけがその様な上下関係にお構いなしに行動していたのです。そしてペリシテ人はサムソンを憎みました。そして同胞ユダヤ人を脅し利用しました。

ユダヤの同胞はサムソンを縛り上げ、待ち受けていたペリシテ人のもとに連れて行きます。ペリシテ人達は

サムソンが同胞に手出ししないのを見越して、サムソンの郷土愛を利用したのです。サムソンは万事休すの状態です。しかしそこに神アドナイの霊が突入したのです。

そしてサムソンに尋常ではない力が働きます。

戦いを終えたサムソンは思わず歌い出します。しかしその歌を一緒に歌う友も、家族もサムソンにはいなかったのです。サムソンは虚しく戦いの武器を捨てました。

 大暴れしたサムソンは力尽きます。彼はひどく渇きを覚えます。

サムソンは神アドナイを呼び求めました。神アドナイはサムソンに水を与えました。その水は単に喉の渇きを潤す水だけでなく、サムソンの霊的な力の回復のためのいのちの水をも意味しています。

サムソンはもっと上手に生きられないのかと、聖書を読む私達は思います。けれどその生き様が、わたしたちに迫ってくることも多いのです。それは、彼の破れかぶれの人生に神アドナイが共にいて下さっていることです。神アドナイのために聖別された人生とは、こちらが謹厳実直に生きて、誡めをことごとく守ることによって為しえる人生ではないのです。神アドナイが、私達を愛し憐れみ関わり続け守り続けて下さる人生、それが神アドナイのために聖別された人生なのです。

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ブドウ(ジョイフルガーデン)リンゴ(H兄庭)秋の味覚が色々


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# by hiraoka-joyful | 2018-09-23 13:30 | トピックス  

9月16日18年今日の糧

命を守る足下の灯火

119105節から112

聖書が書かれたイスラエルでは、昼間の暑さを避けて夜に旅することがありました。そんなとき、月と星が隠れてしまったら、文字通り真の闇になります。一歩間違えたら、荒れ野の真中で道を見失います。それは命を失うことにつながる旅です。そのような旅は私達の人生の歩みに似ています。私達は人生経験を積めば積むほど、毎日が同じことの繰り返しと思っていても、今日が安全だったから明日も安全という保障はどこにもないことを思い知ります。そして、時には自分の行く手に暗黒のような社会、将来を見てしまい、希望を失って、足がすくんでしまうのです。101節から112節を読むとこの詩を詠んだ人の境遇が垣間見えます。

この人は

1) 不正な裁きを経験した

2) 心が折れそうになっている

3) 罠を仕掛けられ、陥れられた

4) 卑しめられ、死にそうになっている

5) 自分の土地を奪われた

そして神に強く訴えています。

1) 漸く伝えているのだから、私の訴えをしっかりと納めて

2) 正しい裁きを教えて

3) 私の命を助けて

この人は神の言葉に、約束に、誡めに最後の望みをかけています。でもそれは小さな光、暗闇に呑み込まれそうなランプの光です。この詩人の目の前は、一寸先が闇です。でもそれは絶望ではありません。小さくても光るランプを手にしているからです。そして私はこの度の地震という経験で一人一人に与えられている神の言葉というこの小さなランプを一人一人が持ち寄るならば、私達が持っている光は必ず闇の中を進み続けることを教えられました。全ての人と同じ暗闇の中にいる。聖書の言葉を知るものにとっても、その状況は変わりません。けれどキリスト者はお互いが神から与えられている光を見ています。私達は大きな暗闇の中でも、皆で心を寄り添わせながら、少しでも遠くに届く光を持ち続けようとしています。そして私達が頂いている小さなランプの光が消えないように、私達を愛するイエス・キリストが守っています。イエス・キリストは私達を愛し私達と共に生きてくださる方です。イエスは私達の人生において救い主になって下さる方です。イエス・キリストは小さな光が消えないようにするだけではありません。イエス・キリストはご自分が私達の足下に光となって、私達の足下を照らす方です。

 119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。



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素焼きのランプと聖書

          

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紫の花は都忘れです(ジョイフルガーデンから)


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# by hiraoka-joyful | 2018-09-16 13:50 | トピックス