2月25日18年今日の糧

希望を見つめて生きた人

ロマ5章1-8節

今日の礼拝宣教は16日早朝主なる神の御許に召されたI兄弟を偲んでのものでした。

イエス・キリストがこの世に来られて送ったその人生は、試練の連続でした。イエスは赤ちゃんの時にすでに時の権力者に殺されそうになりました。それをなんとか逃れた後もこの方はとても貧しい生活をして育ちました。14歳頃に父が亡くなり、その若さでイエスは母と兄弟たちの生活を支えなければなりませんでした。30歳になるまでイエスは貧しいナザレで大工として働いて家族の世話をしたのです。その後、父なる神からとても大切な使命を頂きました。それは他人を愛し抜いて、その愛によって本当の神の愛を人々に明らかにする使命でした。イエスは人が嫌がる病人や、職業の人達とも分け隔てなく友になりました。聖書の事をとても丁寧に教えました。そうやって真実な神の愛がどれほどのものかを、皆に明らかにしたのです。けれどそれだけでしたら、2000年も前の出来事ですから、やがてどんな親切な行いも皆から忘れられます。 ましてや1960年も経って、北海道に住んでいたI青年が、イエス・キリストを信じてキリスト者として生きる決心をする事は起きなかったでしょう。

なぜ、I兄弟はイエス・キリストを信じたか、これはイエス・キリストの生涯における最後の出来事に深く関わっているのです。それはイエス・キリストが私たち全ての人間のために十字架にかかって死んだことです。キリスト教会に必ず掲げてある十字架、これはイエス・キリストが33歳の時にその上で死んだ場所です。こんな死という出来事に繋がる気味の悪い物を掲げるキリスト教会を変わった場所だと世間では思うかもしれません。 でもイエス・キリストがこの十字架の上で死んだことには神の大きな意味があるのです。

1) 神が人間に近づくために、人間の悪心を罰する必要があった。その罰をイエス・キリストが人間の代わりに受けた。

2) イエス・キリストが究極の苦しみを受けて下さることによって、人間の苦しみに希望が与えられた。

イエス・キリストの十字架は、キリスト者にとって、人を苦しめる試練も別の意味合いを与えました。それは希望に繋がるドアを開ける鍵だと聖書はいいます。だから、「この試練を通して、神はどのように働いてくださるのか。」と苦しみの中で聖書に問い続けるのです。そしてキリストにあって神が私たちを愛してくださるとはどのような意味なのか、を理解するのです。そのことが、I兄弟が生涯において生かされた神の愛です。

                               

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                       復活の命にある希望

                           

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by hiraoka-joyful | 2018-02-25 13:18 | トピックス  

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