人気ブログランキング |

カテゴリ:トピックス( 367 )

 

5月26日19年今日の糧

「マルコ福音書のイエス (1)

マルコ福音書 114節    三上 章師

「初め」

 もとはアルケーという言葉.「はじまり はじまり」の意.映画開始のブザーのようなもの。ブーと鳴ると、これから映画がはじまる!と,胸がときめいたものだ。アルケーというのは、これからすばらしいことがはじまりますよ、という合図。そのすばらしいことが語られ始まる。

 「福音」

 ト・エウアンゲリオンという言葉

イエスの伝記としてのマルコ福音書全体をさす.この福音書をつくった人は,これをト・エウアンゲリオンと呼んだ.トはエウアンゲリオンという中性名詞に冠せられた定冠詞.日本語では,福音.エウアンゲリオンは,本来,重要な知らせを運んできた伝令に対する報酬.福音はその根底に,何かいいもの,何かためになるものという意味がある.

 「イエス・キリスト」

 イエス・キリストという個人名です。ただし,キリストの元の言葉,クリストスは,「親切な人」を含意するクレーストスという名詞と発音が似ている.クレーストスは,広く世間に使われていた人名であり、たとえば、当時ソクラテス・クレーストスという名前の人がいた。

当時の人々が,イエス・キリストという名前を聞いたとき,イエスース・クレーストスという風に聞き取った可能性が高い.何か親切そうな名前の人だな,という印象は,受けたであろう.

 「神の子」

 長い間聖書は手書きで写されてきた(写本)。そして紀元4世紀の有力な写本には、現代の聖書に記されている「神の子」はない。

単に「イエス・キリストの福音」では物足りない後世の写本家たちが、「神の子イエス・キリストの福音」と書き換えた可能性が高い。

  

イエスを指し示した「洗礼者ヨハネ」

 通称「釜ヶ崎」で就労支援の活動をしている本田哲郎さん(ローマ・カトリック神父)が訳した,『小さくされた人々のための福音─四福音書および使徒言行録─』(新世社,2001年)によると,「洗礼者ヨハネ」は「沈めの式のヨハネ」となっている。バプティスマは,低いところからより低いところへと流れる水の水面下に全身を沈めて,「低いところから見直させる」民間儀式である。

 「悔改め=メタノイア」

 本田さんは、これを「低みから見直す」と訳す。メタノイアは、視点の転換を意味する。

新しい視点から自分を振り返り、社会を見直す。

そして自分と人,自分と社会の関わり方を見つめ直す。

ここに大きな自己変革への可能性が開かれる。

d0224356_15310304.jpg
  バプテスマを受けた青年イエス

               

d0224356_15311365.jpg
  ジョイフル名物鮭ご飯


by hiraoka-joyful | 2019-05-26 15:33 | トピックス  

5月19日19年今日の糧

宣教題 「信仰」の原点

聖書箇所 ガラテヤ信徒への手紙第4411節  大久保法幸執事

はじめに

この手紙、基調は嘆きと怒りに貫かれているが、同時に父の子に対するような愛情に裏打ちされている。それは「ユダヤ主義者」が信仰をまどわし、「異邦人がキリスト者になるためにはまずユダヤ人になり、ユダヤ教の律法を守らなければならない」と教えていた。パウロはその状況を正す使命に燃えていたのです。

1.「神を知る」ということを勘違いしない

ガラテヤ人たちは異教の教えと儀式の奴隷になっていました。パウロが目を離したスキに「ニセ教師」が入り込み「逆戻り」して古い慣習を守ることが神を知る事と教えていた。

これは、現在日本人である私たちもよく耳傾けなければならない事柄です。

ひとつは、「占いブーム」とか、スピリチュアル系とか神ならぬ「神」にすがる、または「たよるべきものが分からない、知らない」状況。

もうひとつは、「真面目な信徒」が陥りやすい、自由であるべき信仰の世界で形式や慣習、独自の仲間ルールなどが優先してしまう状況。

2.むしろ「神に知られている」

この「知る」という言葉は、単に「知識を持っている」というだけではなく、「体験的に知っている」という意味で使われています。私たちは、キリストを信じた時、聖霊が与えられました。それは、父、子、聖霊の三位一体の神様がいつも私たちの内にいてくださるということです。けれども、私たちが神様を知る以上に神様の方で私たちを知っていてくださるというのです。
 

3.モーセ以前にアブラハム

アブラハム契約は根源的約束で次の三つ内容①国土獲得、②子孫繁栄、③万民祝福です。

それから四百三十年後に、アブラハムの子孫であるイスラエル民族にモーセを通して神様の律法が与えられました。その律法というのは、人が誰一人として律法を完全に守ることのできない罪人であることを気づかせ、自分が無力で、罪の中に捕らわれていること、神様に救っていただく必要があること、そのために救い主が必要であることが分かるようになるものです。

4.結び

 私たちのすべてを知って愛してくださる父なる神がいます。幼稚な教えから贖い出してくださるイエス様がいます。私たちは自由に「アバ父よ」と叫ぶことのできる神の子とされています。その保証として、聖霊が信じる一人一人に与えられているのです。
 ですから、無価値な幼稚な教えに逆戻りせず、栄光の天を目指して前に向かって進む者とされていきましょう。

d0224356_14321184.jpg
アブラハムの信仰を私たちは受け継いでいる

d0224356_14322353.jpg
これが200円で食べられるところは、、ナイでしょう


by hiraoka-joyful | 2019-05-19 14:36 | トピックス  

5月12日19年今日の糧


神の子(相続人)になる方法

ガラテア3章26~29節


パウロが「神の子」だと呼びかけている教会の人たちは神童や天才のようなものすごく優れた人なのでしょうか。

そうではありません。

 この言葉を書いたパウロは、ガラテア教会の人たちが全く聡明ではなく、真理をねじ曲げて都合よく解釈し、どれほど素晴らしい福音の恵みに預かっても無駄になるほど愚か者だと言っているのです。

  しかし、どれほど愚かで、物わかりが悪いキリスト者でもたった一つの真実によって、皆神の子にされている。そのことをパウロは伝えています。キリスト者が、イエス=キリスとの父である、天の父の相続人になるために、たった一つの真実を受け入れる。

まことの神の子イエス=キリストが、煮ても焼いても食えない愚か者のために十字架の苦しみを受けたこと。

滅びの中に落ちるむなしい者を救い出すために復活の命に生きたこと。

それを感謝して信じる事

それだけでキリスト者は相続人として神の子となるのです。

 では、それはいつからでしょう。

 イエス=キリストを信じる者は、明確な行いを持って自分の信仰を表すその時があります。

 それが、バプテスマです。

 それはキリストの方向性へ私たちを動かす出来事です。

この言葉は今まで担保として相手方の支配下にあったものが、借金が帳消しにされたことで、傷のない資産になるという意味を持っています。

イエス=キリストにあるバプテスマは、自分の生き方を帳消しにして、ただ0から出発する出来事ではありません。今までの自分の生き方がそっくりそのままキリストにあるプラスに変わる出来事なのです。

パウロはその出来事を

バプテスマされた(受)と言っています。

バプテスマは受けることです。

イエス=キリストを受けることです。

そうしてイエス=キリストが広げた大きなテントのような衣の下に、


私たちは覆われたのです

そして私たちが着させられたイエス=キリストの覆いは、個々が着るものではありません。

キリストが覆われる中では、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もない。その覆いの中にいる者はキリスト・イエスにあって、一つのテントの下で守られる家族です。

それは、アブラハムが神からいただいた祝福の約束を、バプテスマされた私たちが受け継ぐことです。

アブラハムから連綿と続く「神の家族になる祝福」。
この祝福を私たちは受け継いだのです。
d0224356_06310863.jpg
5月6日に献堂式があった苫小牧バプテスト教会  

d0224356_06312666.jpg
  沢山の思いやりがこもった食事です。


by hiraoka-joyful | 2019-05-13 06:39 | トピックス  

5月5日19年今日の糧


雅歌86-7

「パネェ愛。マジ神」 日髙嘉彦協力牧師

雅歌は一組の若い男女による対話ないしは独り言で構成されます。男性の方は「若者」、女性の方は「おとめ」と呼ばれますが、これ以外に「おとめたち」あるいは「合唱」と呼ばれる女性の友達がたまに顔を出し、二人の噂をしたり、はやし立てたりします。実際の所ヘブライ語の聖書には「若者」とか「おとめ」とか書いてあるわけではなく、後の聖書学者が推測して入れた言葉です。他方、祭司も預言者も天使も神も一切登場しないユニークな書物です。雅歌はこの二人の恋愛歌で、ストレートな性的な表現も出てきます。主人公はおとめで、彼女は恋人への自分の愛は死にも負けないし、陰府にも勝るといいます。愛の同義語である「熱情」と言う言葉ですが、「ねたみ」という意味も持っています。愛という言葉では収まりきれない熱情、つまり時には愛するがゆえに苦痛を伴うような激烈な意志がこの語に込められています。このようにおとめの愛は、人間の領域を超えて、神の領域にまで近づいていきます。

6節最後の行と7節の前半(ab節)で乙女は自分の愛を「火」に例えます。この火も、普通の火ではありません。

    c. 火花を散らして燃える炎

  . 大水も愛を消すことができない。

    洪水もそれを押し流すことはできない。

6aは原文では「その(愛の)炎は火の炎、」と「すさまじい炎」の二つの句から出来ています。そして後半の「すさまじい」という言葉ですが、ヘブライ語では「ヤー」でして、これは神の名「ヤハウェ」の事です。つまりおとめは自分の恋人に対する愛は「マジやばい炎」、「神!」なのです。雅歌には神が登場しないのですが、強いてあげれば、この女性のこの「神」が唯一の例外です。

雅歌を読むと、このおとめの愛は、当時の社会常識や通念、価値観を根本からひっくり返す革命的で破天荒なものだったかが分かります。雅歌は、愛すらも損得ではかろうとする世知辛いこの世の中にあっても、「パネェ愛。マジ神」があることを、今も私たちに伝えています。

d0224356_19275097.jpg
d0224356_19280978.jpg
シャガール雅歌
d0224356_19451541.jpg



by hiraoka-joyful | 2019-05-05 19:49 | トピックス  

4月28日19年今日の糧

ガラテア1章1節ー10節

伝統と文化~視点の違い

横矢宗紀執事

この手紙を書いたパウロは、ダマスコへの途上で復活したイエス様と出会い、異邦人に福音を伝える使徒として任命されました。そのパウロの使徒としての権威は、使徒たちの中でもリーダー的な役割を果たしていたペテロ、ヨハネ、ヤコブによっても認定されました。 ところが、ガラテヤの諸教会の中に、パウロを使徒として認めようとしない人たちが出てきました。つまり、「パウロの語る福音はまがいものだ」「それは神様から託された福音ではない」という批判の声が起きました。
 そこで、パウロは、この手紙の最初に、「私は、イエス・キリストと父なる神によって、まことの福音を語る使徒の権威を与えられたのだ」と強調しています。ガラテヤというのは、今のトルコの中央部に当たる地域です(下記地図)。そこには、パウロが福音を伝えることによって生み出されていった教会がいくつかあったので、   パウロが書く手紙は、各教会に順番に回し読みされていったのでしょう。

d0224356_13260558.jpg

それは、パウロが去った後、このガラテヤの諸教会に、パウロが語ってきたのとは違うことを教える人たちが入り込んできたためです。そして、教会の人々がその教えになびく状況が生じました。
 6節でパウロは、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と語っています。
 パウロは、「ほかの福音」と言っています。 当時の教会のメンバーには、異邦人だけでなく、移住してきたユダヤ人もたくさんいました。ユダヤ人たちは、紀元前数世紀から世界各地に移住を始め、それぞれの地域にユダヤ教の会堂を造っていきました。 パウロたちは、異邦人に福音を伝えるために各地を回りましたが、それぞれの場所にあるユダヤ教の会堂に行ってユダヤ人にもイエス様を伝えていきました。その結果、多くのユダヤ人がイエス・キリストを信じ、教会のメンバーになっていきました。しかし、ユダヤ人たちは、自分たちが神から選ばれた選民であるという意識を持っていました。そして、ユダヤの伝統をしっかりと守って生活していたのです。

 「ほかの福音」とは、この伝統をキリスト者は重んじるべきだと主張する考えでした。パウロは、それは間違だ。

イエス=キリストがなしてくださった事が福音のすべてであり、それにどのような考えも付け加えてはならないと、訴えたのです。

            

d0224356_13255369.jpg
パンやバームクーヘンも美味しそうです。


by hiraoka-joyful | 2019-04-28 13:31 | トピックス  

4月21日19年今日の糧

2019年度に向けて(抜粋)

コロサイ314

 

コロ 3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

このパウロの手紙を読むと、たとえイエス・キリストを信じるもの達の集まりである教会の中でも、赦すことが出来ない事が出てくる。それをはっきりと記しています。パウロは、自分が関わった教会の現実をしっかりと見つめている。その上で、イエス・キリストを通して私達を救いに導いてくださった父なる神は、我が子の性格を把握している親のように、それをご存知であることも同時に見据え、その事実に教会がこれから歩む道への希望を託している。

パウロの手紙に記されたこの言葉を始めに耳にしたのは、私達が住む北海道から遠く離れたコロサイという町の人達でした。当時コロサイは機織りの盛んな町でした。そこでこの聖書の箇所は着物の比喩が使われています。特に14節の「愛は、すべてを完成させるきずな」ですという言葉。これはもともと「愛の帯を締めなさい」という比喩です。ともすると人間はすぐにバラバラになってしまうから、できるだけ関わりを避け、表面的なところを合わせる。それが私たちの現実です。しかし、聖書は、愛を知っているものは、それを恐れずに向き合っていくというのです。

私たちは互いの性格の違い、背景の違いがあったとしても、せっかく神によって建てられ、また多くの人々によって支えられてきた平岡ジョイフルチャペルに繋がっているのだから、安心して向き合い、それぞれの性格を見つめ、状況を見つめ、時に愛の言葉によって支え、時に正し、そして祈り会えるのではないでしょうか。

2019年度牧師は4月末日をもって一信徒になります。そして同時に、協力メッセンジャーを迎えます。既に協力すると申し出て下さった三上章師(元北星学園チャプレン他)、三ツ木芳夫師(元当教会協力牧師他、9月以降)日髙龍子(元当教会牧師他)、日髙嘉彦協力牧師、執事方、その他の協力者の名前が挙がっています。こうして私たちは緊急課題のバリヤフリー化に取り組む準備をします。それには一人一人がもう一歩、歩み寄り協力し合う事が必要になるでしょう。しかし最も大切なのは、多くの人々の愛によって守られる礼拝の場を、心から喜んでゆく者とされることです。

私達の事をとことん愛し、独り子イエスを私達の救い主とする為に、十字架の上で死なせ、復活の命に甦らせた神が、私達の父として歩んでくださいます。だからいたずらに明日を恐れることはないのです。私達はそのことを今までも発見してきたように、今年度も体験し、確認しながら歩んでゆけるのです。

d0224356_13115056.jpg

d0224356_13113462.jpg
イースターの喜びと感謝と共に


by hiraoka-joyful | 2019-04-21 13:15 | トピックス  

4月14日19年今日の糧

宣教題  「キリスト教になくてはならないもの」

聖書箇所   使徒言行録 1126 

三上 章師

 1 クリスチャン

 クリスチャンという呼称は、使徒言行録 1126節にさかのぼります。シリアのアンティオキアという大都市に、キリストを信じる人たちがつどう家の集会があり、自分たちをクリスチャンと名のることになりました。もとの言葉、クリスティアノスは、キリストの仲間、キリストの同志、キリストの親友といった意味です。要するに、キリストの熱烈なファンです。私は大学1年の時、思い通りにならない不満のかたまりでしたが、学内の「聖書を読む会」や宣教師館での「毎日の祈りの会」への出席がきっかけで、クリスチャンになりました。

 2 聖書

 クリスチャンとなってからというもの、聖書を読むことが楽しくなりました。宣教師館のバイブルクラスで英語聖書を読むうちに、ギリシア語新約聖書を読むようになりました。私の大学の専攻はギリシア哲学ですが、哲学の恩師から「一緒にギリシア語聖書を読んでくれませんか」と求められ、毎週日曜日の午後、先生の自宅で講読会が始まりました。この講読会は、大学卒業後も、あしかけ10年ほど続きました。今でも、仲間と共に聖書を学習できることは、私の最高の喜びです。

 3 教会

 1978年から4年間、私はキリスト教の研究のために、メルボルンとシドニーに住みました。そのおりに、無牧師で苦闘している、メルボルンのコーバーク・バプテスト教会に出会いました。1890年に創設されたこの教会は、郊外への人口流出に伴う財政難のため、長い間、牧師を招聘することができず、存亡の危機に瀕していました。その状況の中で、執事会は、「無牧師のため苦闘している教会を支援したいと願っている、日本人神学研究生がいます」という情報をえました。執事会との面接の場で言われたことをいまでも覚えております。「毎週の日曜礼拝の説教をお願いします。それと、週日のどの日でもいいですから、午後に信徒の家を訪問してください。3時のお茶を用意してお待ちしております」。こうして私は、コーバーク・バプテスト教会の牧師になりました。かつて敵国であった日本から来た、英語の不十分な私を、オーストラリアの兄弟姉妹は、クリスチャンであるがゆえに、受け入れてくださいました。その後、シドニーに移転するまでまる2年間、やがて後継牧師が着任するまでの「代打」として、兄弟姉妹と至福の時をすごす恵みにあずかりました。


         

d0224356_18034937.jpg
d0224356_18020197.jpg


by hiraoka-joyful | 2019-04-14 18:05 | トピックス  

4月7日19年今日の糧

信仰が振るわれる時に

ルカ22章31-34節、61,62節

ペトロは弟子の中の最古参です。この日、シモン=ペテロは既にイエスがエルサレムにおいて、大変厳しい立場になっていることに気付いていました。なぜなら祭司長、律法学者達はイエスを殺す算段を既に計画しており、弟子の一人ユダを抱き込んでイエスを裏切らせることに手はずを整えていたからです。

  しかしその様な不穏な空気も、エルサレムの権威に対していつも反抗してきたガリラヤの漁師ペテロを恐れさせません。むしろ彼は負け戦なら華々しく散っていく覚悟をすでに固めていたのです。 

ところがイエスはそれを否定します。

そのようなシモン=ペテロの覚悟に、イエスはこれから起きる事実を淡々と告げます。

それは、イエスの皮肉ではありません。イエスが最もペテロに伝えたかったのは、

父なる神は

愛する子とされた私達が、自分が救われるための自己犠牲を望まないと言うことです。

この言葉によってイエスは信仰にとって大切な二つの事実を、ペトロに意識させます。

1)人(ペトロ)を救うのは、人(ペトロ)が神を愛している愛ではないこと。

2)人(ペトロ)を救うのは、神が人(ペトロ)に注ぐ愛だけ。

~人(ペトロ)はそれほどまでに神に愛されている。

イエスはここで「わたしは言う、あなたに」とペトロだけに語りかけています。イエスは「戯言を言うな」とペトロを見捨てることはしないのです。

さてペテロはイエスの預言の通りに完全にイエスを否定します。

そして 彼(イエス)は振り返り しっかりと見据えた ペテロを 

そして ペテロは思い出した 主のあの言葉を どのように 彼(イエス)が語ったか 彼(ペテロ)に

前に 鶏が 鳴く 今日 あなたは否定する わたしを 三度

そして 彼は出て 彼は泣いた ひどく

ペトロのこの涙は、とりかえしのつかないことをしてしまった後悔の思い、自分の弱さ、挫折の悲しみがあふれたものです。

しかしこの涙にはもう一つの要素があります。彼が泣き出したのは、鶏の声によって、イエスの言葉を思い出したためです。それはイエスが、自分のことを底の底まで知っておられる驚きの涙でした。

イエス・キリストがペトロのことをそれほど深く知っておられた。それは彼を深く愛していたということです。ペトロはこの時、イエスの驚くべき深い愛に触れたのです。



d0224356_13024912.jpg
                 
d0224356_13030970.jpg
   今年度最初の昼食です
               


by hiraoka-joyful | 2019-04-07 13:09 | トピックス  

3月31日19年今日の糧


マルコ1章32節~33節

「国・地域の困難に寄り添う」

今日の宣教は蒔田公平執事でした。

蒔田執事は江別市にある酪農学園、獣医学部で教鞭を執っておられます。

動物衛生学、人獣共通感染症学、獣医疫学のエキスパートで、ヨーロッパアジア、アフリカの各地でも、その専門性の故に多くのお仕事をされています。その経験から、世界の中各地で動物、人間に共に起きている危機的状況の事を語ってくださいました。蒔田執事はその解決のために苦闘しておられます。

  その現状を聞きながら、多くの人や動物を助けるそのお仕事のためにまずはそのお仕事が守られるように祈ってゆきたいと願いました。

また今日の礼拝は2018年度最後の礼拝です。

2018年度も、平岡ジョイフルチャペルのメンバーの生活やまた教会自体に様々な事がありました。

けれど、どのようなときも私たちと一緒にいてくださるイエス‣キリストを慕い、感謝と賛美をささげるために、礼拝が守られ続けてきたことが、何よりも喜びです。

  2019年は今までにないチャレンジの年度になるかもしれません。けれどそこにも私たちの父となった神の恵みに期待してお互いを大切にしながら歩んでゆきましょう。

d0224356_13274744.png
   ウガンダの安全な牛乳生産プロゼクトの皆さん

d0224356_13272158.jpg
        漬物が絶品でした


by hiraoka-joyful | 2019-03-31 13:31 | トピックス  

3月24日19年今日の糧

その名前は「わたしがいる」

出エジプト記14章31節

聖書は沢山の人の手によって何千年もかけて書かれた本です。今は世界中の人に読まれています。世界中の言葉で読むことができます。でも聖書を最初に読んだのは、イスラエルの民でした。そしてイスラエルの人々は長いことエジプトの奴隷になっていたのです。それは、イスラエルの人々の国に食べ物がなくなって食べ物があったエジプトに移住したからです。そして今日の聖書の言葉にモーセという人が記されています。この人は奴隷だったイスラエルの人々を自分達の国につれて帰った人です。

その時帰った人達は100万人以上です。またエジプト国は奴隷が自分勝手に出て行くのを許しませんでした。ですからモーセ一人がどんなに頑張っても、一人ではむりです。

 しかし、ここに彼等のために働いてくださった方がいます。その方も今日の箇所に記されています。「主」とありますが、本当の名前はアドナイといいます。それは、「わたしがいる」という意味を持っています。

「 わたしがいる」と名乗る神は、歎き、苦しみ、神の名を呼ぶ人の側に確かにいて、彼等のために確かに働く方です。この時、神は「エジプトの軍隊を寄せ付けないものとして、わたしがいる」とモーセにせまっていたのです。そして神はその様に働きました。

 イスラエルの人々は自分達を苦しめ、追いかけ、恐怖に陥れたもの達の終焉をはっきり目撃します。何百年も苦しめられ、けして逃れられない、孫子さらに次の世代も同じ日々が続くと思っていた、奴隷としての日々が終わったのを目撃したのです。

 そのとき人々は「わたしがいる」と自分の存在を現された神を、はじめて畏れ、今まで半信半疑だった神の存在を信じ、今までうさんくさいと文句を言っていたモーセという人が、神の僕として自分達に仕えていることを信じたのです。

では「わたしがいる」という名まえをもった神はでは今どこにおられるでしょう。 それは皆さんが礼拝しているこの教会です。なぜなら神は礼拝する人々が大好きだからです。神は今この場所で礼拝をしている皆さんを助けようと待ち構えているのです。

「わたしがいる」と名乗る神を感謝し、賛美し喜ぶために、

2019年度もこの場所で共に礼拝しましょう。

「わたしがいる」と名乗る神がして下さった事を伝えてゆきましょう。

d0224356_13263644.jpg
d0224356_13262384.jpg
春のアサリは美味しかったです。





by hiraoka-joyful | 2019-03-24 13:31 | トピックス