カテゴリ:トピックス( 308 )

 

5月20日18年今日の糧


外国語が通じるこつは


コリント第一の手紙14章10節-19節



イエス、キリストが私達のために甦ってくださったことを祝うのはイースターです。でもそれから50日目に、キリストの弟子たちの上に天から聖霊がくだり、教会が誕生した日をペンテコステ(聖霊降臨日)と言います。 今年のペンテコステは520日、今日です。この日はイエス・キリストを信じる人に神の聖霊が与えられ、それによって教会が誕生した日です。流石にペンテコステは教会にいている人以外は祝いません。クリスマス同様今ではイースターグッツがいろいろな場所で売られています。でもペンテコステグッツは売っていません。しかし実はペンテコステは、教会にとってだけでなく、全ての人々にとって特別な日です。なぜならペンテコステは全ての人にとって希望の日だからです。それは、神が聖霊を通して今もイエス・キリストの救いを伝えている希望です。神の平和が実現する希望です。神の愛が現れる希望です。そして私達の人生の中、日々の生活に神が関わって働いて下さる希望です。


さて、神の聖霊が与えられ、教会が誕生したのですから、逆に言えば、イエス・キリストを自分達の救い主と告白する人々の集まりは、どのように小さくても大きくてもどのようなスタイルでもそこには聖霊が働いています。しかもとても自由に働いているのです。今宣教の後に空より高い神の愛を皆さんと賛美していますが、この曲はおなじみの「鯉のぼり」に私が詩を当てたのです。



1.空より高い神の愛


真実(まこと)の神がお父さん


イエス様信じる子ども達


聖霊の風に吹かれてる。



2.海より深い神の愛


真実(まこと)の神がお父さん


イエス様信じる子ども達


慰め主が共にいる


この歌詞に込めたのは、平岡ジョイフルチャペルに集う私達が聖霊の風に吹かれながら、信仰生活を送ってゆく。 そんな私達一人一人を神の子どもとして、父なる神が惜しみない愛を注いでおられることです。それだけでなく聖霊の風が吹くとき、様々な賜物プレゼントが一人一人に与えられます。このプレゼントについてパウロはこの手紙を通して丁寧に答えています。


この14章には、宣教の言葉もまた目に見えるかのごとく語ることが大切だと記されています。


1)聖霊の賜物を求める


2)異言を語る者は解き明かしの賜物も求める。


3)理解できる言葉はキリスト者の集まりでは特に重要


4)それによって教会を建設する



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イエス・キリスト  神の子 救い主(5つの言葉)
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ペンテコステ礼拝の食事


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by hiraoka-joyful | 2018-05-20 13:49 | トピックス  

5月13日18年今日の糧

愛がはっきり見える時

コリント第一の手紙13章4-13節

 

1)他者への愛(4-6)

この愛はただ我慢する愛ではなく、積極的に情け深い行いをする愛です。パウロは、その経験を持っていました。パウロを助けたのがダマスコにいたキリスト者アナニアでした。彼の目から見ればパウロは鬼にも等しい人でした。そこにアナニアの苦しみと、パウロへの忍耐がありました。しかし彼はパウロのために祈り、バプテスマを施し、食事を与え、新しい命に生きる者へとなる手助けをしたのです。その時、パウロはアナニアからの愛によって、イエス・キリストの愛がどのような愛か、その真理を見出しました。

2)自己への愛(7)

それは、イエス・キリストから与えられた新しい生き方を全うする為に、神の助けを信じ、希望を持ち、苦しみを乗り越えてゆく自分への愛です。決して自分を見捨てない愛です。

 パウロは同胞には忍耐強く、イエス・キリストの真理を語り、教会に対しては、パウロを理解した数少ない者の一人バルナバに仲立ちをお願いして、イエスの直弟子達とも親しく交流するようになります。そしてイエスが、どのような事をしたか、何を伝えたかを、パウロは行動的で、積極的な不屈の精神でしっかり学んでゆくのです。

3)不滅の愛~教会の中で(8-10)

コリント教会は様々な人の意見が横行し、人々を混乱させ、分裂し、崩れかかっていました。それを修復するのは、たった一つのことです。小さな手入れに見える些細な愛の働きが、教会を強固にするのです。

4)成熟した愛(11)

イエス・キリストに出会ったパウロは、それまで与えられてきた聖書の戒めが、本当は神の愛からくる導きだと知ります。神の愛という視点から聖書を読み、俗にまみれたコリントの人々へも、彼は忍耐と深い愛情を持つ親のように接するようになったのです。

5)完全な愛(12)

 私達は神の愛がどれほど深く広く、完全であるかをぼんやりとしか知りません。それに対して、神は私達を完全に知っており私達をはっきりと見つめています。その神を私達も又はっきりと知る日が必ず来ると、パウロは語っています。

6)偉大な愛(13)

愛には質量がある。愛だけは目に見えるということです。

当時のコリントでもてはやされていたのは、自由人で、富と権力と体力を持ち、奴隷に仕事をさせ、美しい女性を囲っているような人々でした。しかしパウロは、具体的に細心の注意を払って、教会に集う一人一人を大切にしたし、どのような人もお互いの「ご大切」になるように促し続けたのです。

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キリスト者を捕らえようとする道中でイエス・キリストに出会う

                  

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        母の日の食事です


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by hiraoka-joyful | 2018-05-13 13:25 | トピックス  

5月6日18年今日の糧

イエスを刻みこむ食事

コリント第一の手紙11章23節―26節

主の晩餐が制定されたのは、主イエスが十字架に「引き渡される当日」のことでした。イエスの言葉によって、ひとかけらのパンが特別な意味を持つものとなりました。私たちがいただくイエス・キリストの体、それは、私たちのために十字架にかけられ、引き裂かれた体です。当時献げられた感謝の祈りは、このような言葉で始まりました。

「主よ、あなたは祝福に満ちた方です。この食べ物を食す者を祝して下さい。」

このように肉体の養い、栄養であるパンが、現実にキリストによる救いという魂の養い、栄養になるのです。主の晩餐式において私たちに与えられるのは、具体的な恵みです。

この晩餐式はキリストを考える機会ではありません。イエス・キリストにおいて与えられる祝福を信仰者が感謝して受け取る現実的な手段です。

 また主の晩餐式は新しい契約の場です。かつて神が与えた契約は本当に素晴らしい完全なものでしたが、神と契約を結んだのは奴隷だった民でした。彼等は不完全で、それを受け止めきれませんでした。ですから神は奴隷だった民の本質を、驚くべき方法で一新されたのです。それが「わたしの血によって立てられる」ものだとイエスが言われた新しい契約です。

奴隷と結ばれた契約においては、動物が人間の罪を背負って殺されました。けれど新しい契約では、神の独り子イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、血を流して死んだのです。血は命を保つもの、命を運ぶものです。体の隅々にまで行き渡り、体の全てを繋いでいるのです。イエスはその血を飲めと言いました。勿論、主の晩さんに最初に預かった弟子達が、イエスの十字架の下で、流れる血を手ですくって飲めという事ではありません。なぜなら弟子達はその姿を怖がって、遠巻きにするしかなかったからです。イエスの十字架に躓いたからです。

イエスはそれを全てご存知で、血の代わりに滋養がある晩餐のブドウ汁を与えたのです。またそのことを記念しなさいと言われています。 それは、ただ古いノートを開いて、古い知識を確認する行為ではありません。思い起こす者が、それを今も現実に追体験する事柄です。

イエスが与えた杯を飲むことが、どれほど私達の生涯を滋味豊かにして行くか、日々の生活の中で体験するのです。

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過越の食事の中で、主の晩餐が与えられた
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by hiraoka-joyful | 2018-05-06 13:29 | トピックス  

4月29日18年今日の糧

神の栄光に包まれて生きる

第一コリント1023111

私達は自由を与えられているのでしょうか。イエス・キリストを信じるキリスト者には確かな自由が与えられています。それは一つの食事が現しています。イエス・キリストが与えてくださったパンとブドウ汁をいただく主の晩餐です。 平岡ジョイフルチャペルでは、月に一度、主の日にこれを頂きます。信仰者はこの食事だけを吟味して食べます。イエスの救いに感謝して食べるのです。イエスの命に生きる決意をもって食べるのです。そしてそれ以外の食事に関しては全く自由です。それは私達がどのような生き方で歩もうとも、私達をイエス・キリストの救いの恵から引きはなさい、全く自由であることに繋がります。そしてその様な生き方を赦されているからこそ、自分の人生を自分のためだけに消費し尽くすのはもったいないのです。火をつければ灯りとなる蝋燭のように、私達は神の手で既に整えられているのに、もっともっと太い蝋燭になる事だけを追い求めて、灯りを灯そうとしないならばどうでしょう。

 そうではなく、どのような事にも隷属することないように、真実な神が私達を神の子どもとされたのだから、与えられた自由を用いて何をするにしても、私達は

1) 他者が見てイエス・キリストの愛が解らなくなるような言動をしない。

2) 他者が見てイエス・キリストの片鱗を見出すような言動をする。

そのように生きなさいと、パウロは促しています。

ただ勘違いしてほしくないことがあります。

パウロは私達に、イエス・キリストになれと言っているのではないのです。罵られても罵り返さず、屠り場に引かれていく小羊のように生きて、人類を救う事など、私達には出来ないからです。

11:1 Imitate me, just as I also imitate Christ.

  私達はイミテーションです。全てを照らす真の光が、イエス・キリストならば、神に創られた小さな蝋燭、それが私達の灯せる光です。風が吹けば炎が揺らめき、小さくなりやがては燃えかすとなる。しかしそれでも私達はイエス・キリストの片鱗を、その光の暖かさを、希望を伝えてゆく事が出来る。

パウロはそのように、励ましているのです。

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今日は皆で、窓ガラスを磨きました。綺麗になりましたよ。


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by hiraoka-joyful | 2018-04-29 12:57 | トピックス  

4月22日18年今日の糧

イエスは誰に仕えたか

マルコ103545

2018年度の歩みに向けて私達のテーマは何だろうと言う事を思い巡らす中で、私は「神の恵みの中に仕えあう教会」という言葉を教会の目標に掲げました。そしてマルコ1043b~45を今年度の聖句にさせて頂きたいと願いました。

平岡ジョイフルチャペルは真実な神から皆様に与えられた恵みを汲み出すところです。ですから一週の歩みの中で、私たちがどれほど厳しい苦労を背負っても、ここでその荷を降ろす場所なるように教会堂を整え大切にしてきました。そしてここに集う者達が週の守りを感謝し、賛美を献げる礼拝を第一にしてきました。この礼拝では信仰者が命の水である神の言葉を愛し、それを十分に蓄えて、出かけてゆく場所です。蓄えた水が私たちの一週を潤し続けることが出来るように、また様々な事情でこの場に集えないもの達が同じ聖書の言葉によって養われることになってほしいと、昨年度は、多くの方が聖書教育を購入して読む事を教会で推進してきました。今年度もその姿勢を崩さないで共に歩んでゆきたいものです。

その中で、今年度私たちが見出してゆきたい事があります。それは、私たちは誰に仕えていただいているかと言うことです。まず私たちのためにご自身の命を献げてくださった、イエス・キリストがおられます。この方が与えてくださった慈しみと愛の下支えが、私たちの歩みを確かにしています。宣教の為に聖書の言葉から恵をくみ出し続ける牧師がいます。そして週ごとの礼拝が整えられるために奉仕をする方達がいます。またそれぞれが与えられている私たちの生活を保つ収入から、この教会の様々な働きの為に献金を献げる方達がいます。礼拝の時間、この場所に集うために身を整え、生活を整えてくる方達がいます。遠く近くにいてもお互いの苦しみや課題を思いやって、祈り合う方達がいます。一人の人がイエス・キリストを信じるとき、心からの喜びを持って迎える方達がいます。イエス・キリストを知らない友の様々な悲しみに寄り添う方達がいます。何十年も音信不通であろうと、一人のキリストにある兄弟姉妹の事を覚え、心にかけ続ける方達がいます。

私たちはそれらの人々に仕えられてきたのだと言うこと、今も仕えられていることを忘れないで、互いの悲しみを補い、互いの喜びを分かち合う一人一人とされましょう。

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今日は教会の総会がありました
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by hiraoka-joyful | 2018-04-22 15:01 | トピックス  

4月15日18年今日の糧

揺るぎない土台がある415

Ⅰコリント3章9-15節

パウロが語る福音を聞いて、イエス・キリストの恵によって神を礼拝するために人々が集うようになった時、パウロは建物の土台を据えたと表現しました。土台がしっかりしなければ、建物は時間が経てば崩れてしまいます。ですからパウロは知恵を用い、言葉を選び、聖霊の働きを祈りながら働いたのです。

パウロはその上で、コリントにある教会に、みなで土台の上に目に見える教会の姿をつくってゆくと言います。その時とても大切なことがあります。第一のことは、どの土台の上に建てるかということです。十字架につけられたキリスト、これが、パウロが据えた土台です。イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、神私達の罪を赦して下さった信仰です。 次は、どのような素材を用いて建てるかです。

そこにパウロは六つの素材を列記します。

金・銀・宝石(大理石・宝飾の石)~価値ある物

木・草・藁 ~無価値な物

ここで価値がある物とは、その材料の金額の事ではなく、材質のことです。

  その材質で、一番大切なのは救い主イエス・キリストがあらわされた神の愛に見合うのかということです。神はその独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さった。その愛という土台としっかりかみ合い結び合う素材は、キリスト者の友や家族隣人への愛です。その素材によって、自分の人生を、また教会をたてあげるようにパウロは伝えます。しかし、私たちは神の愛に照らし合わせて、他者に仕えているかと吟味するとき、私達が行っていることがいつまでも残る材料のように価値あることをしているかといえば、胸をはって、行っていますとはなかなか言えません。

そのような私たちにパウロはここで豊かな救いを語っています。私たちのキリスト者としての行いが、どのように成果が見えなくても藁の家のように小さな火で燃え尽きるようなことを繰り返しても。しかし私達自身は、火の中をくぐり抜けて来た者のようにではあるが、救われると語るのです。なぜならイエスが十字架で最も厳しい裁きの火を自分の身に受けて下さったからです。

だからこそ私たちの歩みは、失敗したら滅ぼされてしまうとビクビクしながら生きるようなものではありません。私たちは、私達を愛し抜いて十字架につけられ、復活した主イエス・キリストという揺るぎない土台を与えられているからです。

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パウロが伝えた福音によって教会が生まれた

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by hiraoka-joyful | 2018-04-15 13:32 | トピックス  

4月8日18年今日の糧

宣教報告礼拝

ヨハネ4章1-26節

乾かない水

今日の礼拝は、カナダにあるリッジモンドバプテスト教会日本語集会で奉仕をされている

三ツ木芳夫師によって聖書の言葉を伝えていただきました。またお連れ合いの朋代姉が

証をして下さいました。ご夫妻は昨年8月にカナダへ行かれ、6ヶ月間様々な集会で奉仕されてきました。一時帰国の後再びカナダに旅立たれます。カナダでは日本人だけでなく、

英語部の皆さんとも親しくされています。定年後の生き方として、お二人にとって大きなチャレンジでしたが、どのように困難な時も不思議な助けが与えられたとの証がありました。そしてなによりも素晴らしい出会いが待っていた。それは救い主イエス・キリストに常に

聞き求めてゆく中で、乾かない水を与えてくださるイエス・キリストにその場所でも、出会った事です。そしてお二人のことを歓迎し、お二人によって慰められ、お二人によって

乾かない水イエス・キリストを見出す人々に出会ったことです。

平岡ジョイフルチャペルではこれからもお二人を覚えて祈っています。

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             蜜柑は鹿児島から


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by hiraoka-joyful | 2018-04-08 13:39 | トピックス  

4月1日18年イースター今日の糧

イエスは墓にはもういない

マルコ16章1~8節

愛する先生(イエス)を失って、これからどのように生きたらよいかわからず、暗い中、自分たちの足元に目をやりながら、女性達は墓に急ぎました。

この彼女たちの上に、太陽が新たに昇ります。それは安息日の次の日の朝です。

聖書は、安息日をすべての労苦を止める日だと定めています。

20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

6日間の厳しい労働が終わり、金曜日の夕方から土曜日の夕方まで、聖書の定めの中で人は休みます。 これは神が労働を担う人や動物に与えた休みでした。

そして別の見方をすれば、復活のこの時まで、安息日の終わりは労苦の始まりの日でした。6日間の労苦によって人は傷つき、疲れ果てます。週ごとに来る安息日ですら傷ついた人を、疲れ果てた人を完全に癒すことが出来ませんでした。それが滓のように溜まってゆくのです。

けれど、イエスの復活の朝から、人は確かに労苦を、重荷を担う日々を送るのだけれど、イエス・キリストの慈しみが、その傷を刻々と癒し続けるようになるのです。

それは救い主を待ち望むマラキという預言者が垣間見た朝の光です。

マラキ 3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。

 この朝の光は常にイエスの墓を思い続けた女性達に注ぎます。イエスが墓に納められて安息日が始まったけれども、彼女達は傷ついたまま、本当の安息を味合わなかった人達です。深い絶望の中にもなお自分達がなさなければならない責務を思い巡らしながら、自分に向って、この絶望から救うのは誰かと問い続けていた人々です。そこに希望の光が注いでいるのです。

けれど、復活の出来事に触れた時に、婦人たちを支配したのは恐れでした。 そして彼女たちは福音の言葉から逃げだしました。良い知らせを聞いても、人はすぐには受け入れられないものです。

そして、彼女たち自身は何も言えなかった。

恐ろしがりつついたから。

未完

ではそれを成し遂げてくれるのは何でしょうか。

それは 先立って わたしは行く(現)

 あなた方  ガリラヤに

と約束したイエス・キリスト自身です。

その耳で福音を聞いた人の中にイエス・キリストは先立って働き始めるからです。そんなことは、信じられない。とんでもない。近づくと恐ろしいことに巻き込まれるかもしれない。そう福音の言葉に耳をふさごうとしても、真実な福音の言葉はその人の中で新しい種となり、命を輝かし続けるのです。

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今日はイースターの卵探しをしました。

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 イースターおめでとうございます。


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by hiraoka-joyful | 2018-04-01 12:54 | トピックス  

3月25日18年今日の糧

信仰告白をした人

マルコ15章33~47節


イエス・キリストの十字架を見つめた人達の姿が記されています。

1)百人隊長

彼はイエスの処刑を執行する責任者でした。じっとその死刑の様子を見ていました。そして彼の目の前でイエスが息を吐き出し、死んでゆきました。すると百人隊長の口から、彼が今まで考えもしなかった言葉が生まれます。なぜなら、彼のところにもイエスが吐き出した神の愛が届いたからです。この百人隊長は聖書も読んだ事もない、神殿で礼拝したこともない、何十回と人の死を見ていた人です。どんなに残酷な十字架刑を見ても、彼の心は冷静でした。その人がイエスの十字架をじっと見つめ続けたとき、イエスが吐きかけた聖霊が彼に伝えたのです。

「本当に、この人は神の子だった」

 彼はこの事を教会の中で多くの人々に証し続け、その証が福音書に書かれています。

2)アリマタヤのヨセフ

 ヨセフはイエスを有罪に定めた最高法院の議員でした。彼もイエスの十字架の側に来ていました。最初は救い主を語る罪人が処刑されるのを確かめるためだったかもしれません。ヨセフもまたイエスの十字架をじっと見つめ続けていました。すると彼は今まで考えもしなかった行動をおこします。勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。

 自分が死刑にと定めた人が死刑囚の遺体を引き取る。それはそれまでのヨセフ議員にはありえないことです。しかしイエスが息を吐き出した瞬間、彼の元に届いた聖霊が彼にイエスを埋葬するように促すのです。ヨセフは東奔西走し、イエスを埋葬します。彼のこの行動も又百人隊長と同様、イエスこそ神の国を開いた方だと告白していたのです。

イエスが葬られたことは、教会の信仰においても大切なこととして告白され続けました。イエス・キリストの救いは、私たちの苦しみの表面を掬い取ることではありません。墓に下る底ざらいの救いなのです。そして教会に集う者達は、このイエスの底ざらいの救いに預かっているのです。

3)多くの女性達
ここにはイエスの十字架と埋葬を見つめた多くの女性たちの名前や姿が記されています。彼女たちもやがて教会の中でイエス・キリストの証人となるのです。彼女たちは後のキリスト教会で、イエスの愛の教えに従い、具体的に人々に仕えるものたちになってゆきます。謙遜な愛、受け入れる愛、仕える愛、ともに苦しむ愛、生み出す愛をもって、彼女たちはイエスを証したのです。


今日は奏真くんの献児式でした。幼子のために祈りました。


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     次週はイースター礼拝です。共にイエスの復活を喜び感謝しましょう。


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by hiraoka-joyful | 2018-03-25 13:37 | トピックス  

3月18日18年今日の糧

接吻で殺す~それでもイエスは愛された

マルコ144352

福音書の描写は、イエスの最後の時間を次々に記しています。ひるがえって数時間前は、過ぎ越しの食事を弟子達と食べました。この時イエスは、自分が差し出すイエス・キリストの命を取り、消化しなさいと、パンを裂いて弟子たちに与えました。真実な神が恵みによる新しい契約をする。そのしるしとして、イエスは、弟子たちに杯を与えました。

そののち、ゲッセマネの園で、真実な神を「アッバ、父」と呼びかける祈りが、弟子たちに与えられました。

そしてイエスは、自分が弟子として選び、3年に渡って共に生きたユダと彼が導いて来た捕縛者達の前に向かって行きます。彼等は権力者に言われるがまま、恐怖の中でイエスに暴力で向かいます。そしてイエスを犯罪人として扱います。けれどイエスは自分を剣や棒で傷つける者にさえ自分を委ね、自分を渡し与えて行かれます。48節の捕えると言う言葉は、抱え込む、把握するとの意味があります。マリアがイエスを身ごもった時にこの言葉が使われています。

ルカ1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

イエスはただ、イエスを憎む人の手に渡され、捕えられたのではありません。この出来事は、イエスご自身が彼らの腹の中にインマヌエルとして、抱え込まれたことをあらわしているのです。

その時、弟子達は恐怖心のあまり逃げ出しました。けれどイエスは自分を捕らえる者、裏切る者、自分から逃げ出す者を責めてはいません。イエスは前もって弟子達にこう伝えています。

マル14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。

14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
イエスほど、私達の事を知っている方はいません。私達が持っている愚かさや誤魔化しも、すべてを知っています。そして私達がどれほど権力に弱いか、どれほど逆境に弱いかも知っています。ホンの些細なことで意気消沈することを知っています。小さなトラブルで躓くことを知っています。それをイエスは、私達が言い連ねる様々な理由での躓きとしないで、イエス自身が躓きを与えたと言われるのです。私達自身に責任を取らせるのでなく、イエス自身が責任をとる。そして私達をいつでも待ち受けると約束しているのです。

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by hiraoka-joyful | 2018-03-19 13:26 | トピックス