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カテゴリ:トピックス( 403 )

 

2020年2月16日「大牧者なるイエス 我らを導くその声」

宣教:「大牧者なるイエス 我らを導くその声」
宣教者:エイカーズ・愛先生(小樽バプテスト教会牧師)
聖書箇所:ヨハネによる福音書 10章11~21節

イエスはファリサイ人たち、弟子たちとエルサレムにいた。
直前の9章最後のところでファリサイ人に、あなた方が見えると言うところにあなた方の罪があると宣言された後のおはなし。

イエスさまは御自身のことを、わたしは良い羊飼い。と教えられた。羊飼いは時に夜、火を焚きながら羊の番をし、狼から羊たちを守る。狼は羊を奪い追い散らす。狼とはわたしたちの内にある死への恐れ、不安、絶望。

死より甦られたキリストは、新たな命をその身に帯びて大牧者として、わたしたち羊を牧していてくださる。

羊飼なるイエスさまの御声に聞き従うこと、イエスさまの牧場である教会、礼拝の場に祈りを注ぎ心を傾け、神さまがその群に託そうとしておられる将来と希望とを与えようとされている御計画を受け取る、そのために共に祈り語り合うことを感謝しつつ喜んで行おう。

やがてわたしたちも加えられてゆく、その御国ですべての民と合流し共に賛美を高らかに歌うその日まで、いつも喜び祈り御言葉に聞こう。


来週2/23(日)の宣教予定者は三上章先生です。


by hiraoka-joyful | 2020-02-16 12:14 | トピックス  

2020年2月9日「マルコ福音書のイエス (12)~「罪」という風評の放逐」

宣教:「マルコ福音書のイエス (12)~「罪」という風評の放逐」
宣教者:三上章先生
聖書箇所:マルコによる福音書 2章5~12節

体に麻痺のある男性が,四人の男性によって担架に乗せられ,イエスの目の前につり下ろされた話の続きである。
イエスは麻痺のある男性に,「あなたの罪の数々は赦されている」という,一種の罪の赦免の宣言を行った。宗教の締め付けが強かった当時,罪の赦免宣言は神の専売特許であり,人間はだれもやってはいけないことであった。そういう状況の中で,ただの人であるイエスは赦免宣言を行った。ただし,「あなたの罪の数々は赦されている」と言っただけであって,「私はあなたの罪を赦す」とは言っていない。とはいえ,「あなたの罪の数々は赦されている」というだけでも,十分な挑発であった。なぜイエスはこのような発言をしたのであろうか?

障がいというあり方を罪に結びつける風潮を放逐するためであった。
岩波新書編集部編『戦後を語る』(岩波新書,1995年)所収の,安積 遊歩(あさか・ゆうほ)「中国,シベリアから帰った父と車イスの私」によると,彼女が30台半ばの頃,父親が末期ガンになった。そこで,お父さんに聞けるだけ聞こうと試みた。
「私の障害について,私が生まれたとき,お父ちゃんはどう思ったの?」父親の答えは,「おまえが生まれたときには,その萎びた足を見て,天罰が下ったのだと思ったものだ」であった。可愛がられていた父親の言葉だけに,心にぐさりときたと,安積さんは述べている。
「天罰が下った」などとは、根も葉もない俗説に過ぎないが,今でも風評的に広まっている。
イエスの時代も同じであった。体の障がいはさまざまな「罪」に結びつけられていた。神殿参りをしないから。神殿税を払わないから。安息日に仕事をしたから。神の名をみだりに唱えたからなど,今日ではとうてい罪にはならないような行為である。そういうのが他にも数多くあった。

それゆえ,イエスは「罪の数々」と複数形で言ったのである。そういった宗教上の罪が巷に横行し,人々を苦しめていた。その苦しみから解放してあげるのが,本来,宗教家たちの役割であるが,彼らは罪という名の風評を放逐しないどころか,むしろ助長していた。
イエスの言いたいことは,世間では障がいをもつ人を見ると,なんでもかんでも罪のせいにするが,そんなことはない。風評などに惑わされてはならない。罪のせいなどではない。なんなら言ってあげましょうか。「あなたの罪の数々は赦されている」とでも。罪という風評など消えてなくなれ!これがイエスの真意であろう。


来週2/16(日)の宣教予定者はエイカーズ・愛先生です。

by hiraoka-joyful | 2020-02-09 13:16 | トピックス  

2020年2月2日「何と幸いなことか-わたしの娘が生き返った-」

宣教:「何と幸いなことか-わたしの娘が生き返った-」
宣教者:三ツ木芳夫先生
聖書箇所:ルカによる福音書 8章49~56節

本日は会堂司ヤイロとその娘が、お話の中心となります。
ただその途中で、12年間も長血で苦しめられてきた娘がいやされる話が挿入されていますが、本日はその事実に焦点をあて、同時に大切にしていた娘の死に向き合わざるを得なくなったヤイロに対して「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」(8:50)との主イエス様のお言葉と、死んだ娘に対しては、その手をとって「娘よ、起きなさい。」と呼びかけました(8:54)。
生きている父親、死んだ娘のそれぞれにかけられた言葉に私たちは何を期待していくのでしょうか。


来週2/9(日)の宣教予定者は三上章先生です。

by hiraoka-joyful | 2020-02-02 13:07 | トピックス  

2020年1月26日「マルコ福音書のイエス (11)~「信頼」の構造」

宣教:「マルコ福音書のイエス (11)~「信頼」の構造」
宣教者:三上章先生
聖書箇所:マルコによる福音書 2章1~5節

1節に「日々の後」とあるが,おそらく数日間であろう。これらの日々については,イエスが何をしていたかは書かれていない。おそらく特筆すべき活動は行わず,骨休めをしていたと思われる。イエスにも休息は必要であった。休む必要がある時は,休んでよい。

2節に,押し寄せた大勢の人々にイエスは,「その言葉」(ホ・ロゴス)を語ったとある。それは温かい心から出てきた温かい言葉であろう。イエスという人は,お地蔵さんのような人だと思う。地蔵菩薩は,あの「賽の河原」の仏教説話と関係がある。親に先立って亡くなった小さい子どもが,この河原で母親や父親をいとおしみ,小石を積んで塔を作ろうとするが,石を積むとすぐに鬼がきてこわしてしまう。
この説話は昔から「地蔵和讃」として庶民のあいだで歌い伝えられてきた。「お母さん,お母さん」と泣き叫ぶ幼子を鬼は容赦なくいじめ続ける。この苦しみをどうしたらいいのだろうか。
「地蔵和讃」は次のようにいう。
 地蔵菩薩にまさるものはない。
 遥か谷間の彼方から 光り輝き尊いことに 幼子の前にお立ちくださり 
 いわれた
 もう泣かなくてもいいよ 幼子たちよ 
 おまえたちは短いいのちで 冥土の旅にきた
 生ける者の国は冥土から遠く離れている
 わたしを冥土の父母と思って過ごし 頼りなさい
 こういって 幼子を着物の裾の中にかき入れ
 まだ歩けない幼子を手に持つ杖の柄に取りつかせ
 慈しみに満ちた胸に抱きかかえて撫でさすり
 憐れみたまう なんとありがたいことか
 子どもに先立たれて悲しければ 西に向かって手を合わし祈りなさい
 残された私のいのちが終わるときには 子どもと一緒に天国に導いてください
 地蔵菩薩さま 朝に夕に仏壇に念仏を称えなさい 南無阿弥陀仏と
 ※「南無」はインドの言葉のnamasに由来し,「おまかせします」という意味。

 イエスの口から出た「その言葉」とは,なにかそのような温かいものであったと思う。 

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来週2/2(日)の宣教予定者は三ツ木芳夫先生です。


by hiraoka-joyful | 2020-01-26 13:12 | トピックス  

2020年1月19日「和解・平和への導き」

宣教:「和解・平和への導き」
宣教者:金子弘先生
聖書箇所:マタイによる福音書 5章43~44節
     コリントの信徒への手紙 二 5章17~21節

教会という場で初めて耳にした聖書の箇所がマタイ5章43~44節で、イエスの言葉に物凄い衝撃を受けました。自分の生い立ち、戦時下の貧困からして、愛や憐れみなど全然なく、自分以外は敵ばかりだった者にとって、詭弁、理想、空想 、夢物語でしかないと逃げたい思いでした。その一方で何やら言葉に表せない不思議さを感じさせられ、それ以来、聖書と向き合ってくる中で、イエスの平和的和解に興味を持ち、それが生涯課題の一つになりました。

サンスクリット語に『アヒンサー』という言葉があるのを、原発課題に取り組んでいる方から聞きました。「命あるものを傷つけない」という意味だそうです。何億万年というスパンで起こる自然界の呻きと災害、絶え間ない闘争、上に立つ者の不義不正の世にあって、「いのち」「こころ」「人格」「存在」「弱い立場にさせられた人々」が、何と安っぽく、軽視され、疎外されていることでしょうか。

そのような中でのイエスの平和的和解の「ことば」とその「生き方」は、何がどうあれ「いのち」にかかわり、また「永遠のいのち」に繋げられる信仰指針ではないかと思い、非常な困難さがありますが、さらに、イエスの深遠なことばに向き合い、実践できればと願っているのです。

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来週1/26(日)の宣教予定者は三上章先生です。

by hiraoka-joyful | 2020-01-19 12:53 | トピックス  

2020年1月12日「マルコ福音書のイエス (10)~時には怒るべし」

宣教:「マルコ福音書のイエス (10)~時には怒るべし」
宣教者:三上章先生
聖書箇所:マルコによる福音書 1章40~45節


40節の病気の男性の言葉を直訳すると,「おまえが望むなら,おれを浄くすることができるのだ」となる。これを敷衍するなら,「その気になればおれを浄くすることができるんだろ」「できるものなら,おれを浄くしてみせろ」「こんな姿のおれだ。恐ろしいだろ。近寄りたくないだろ」というところか。えらそうな口ぶりである。イエスも,このようなものの言い方が嫌いだったようである。怒るのが当然である。

41節の「憐れんで」(スプランクニステイス)は,写本上の問題がある。西方系写本は「怒って」(オルギステイス)である。この読み方でないと文脈にそぐわない。これを後の写本家が,「憐れんで」に書き換えた可能性が強い。おそらくイエスから「怒り」の要素を取り去ろうとしたからであろう。イエスは怒った! 

横浜市に住む友人から,カジノ反対に関するメールが届いた。「横浜市では、IR(カジノ)を巡って林市長のリコール運動が起こっています。市長選前の世論調査では市民の2/3がカジノに反対でした。市長は、市長選前にカジノ誘致を明言せず「市民の意思を見極める」と言っていたのに、当選後に一転誘致に踏み切りました。その政治姿勢は大いに問題ありです。私はリコール署名の受任者になりました。半年かけて受任者を集め、一斉にリコール署名を開始します。」

怒るべき時には怒ってよい.

43節に「そして(イエスは)彼を叱りとばし,すぐに追い出した」とある。なぜこのような仕打ちをしたのだろうか。44節を読むとわかる。「いいか。だれにもなにも言うな」と言うからには,イエスはこの男の性癖を見抜いていた。イエスの前で演技して見せたら,まんまとひっかかりやがった。病気を治させてやったよ,とでもいいかねない人物である。

イエスは,この男にちゃんとした社会人として生きるように勧告する。「さあ行って,お前自身をその祭司に見せなさい。そして浄めに関してお供えをしなさい。モーセが定めた(供え)ものを。」それが当時の社会的宗教的習慣・マーナーであった。イエスがわざわざこういうことを言ったのは,この男が社会における正しいふるまいから逸脱する生き方をしていたからであろう。

45節を見ると,やはりそうかと思わざるをえない。「この男は,その場から出て行き,「多くのことを宣伝し,その言葉を拡散ささせはじめた。」宣べ伝え(ケリュグマ)には,善いものと悪いものとがある。この男がしたことは,悪いケリュグマである。善いケリュグマは,イエスを宣べ伝える。悪いケリュグマは,自分自身を伝える。こういうケリュグマは,イエスを妨害する。


来週1/19(日)の宣教予定者は金子弘先生です。

by hiraoka-joyful | 2020-01-12 10:03 | トピックス  

2020年1月5日「わたしはあなたと共にいる」

宣教:「わたしはあなたと共にいる」
宣教者:三ツ木芳夫師
聖書箇所:ヨシュア記 1章5節

本日は、ヨシュアを取り上げ、聖書をとおして学んでいこう。

モーセの死後、神がその後継者に立てたのは、ヌンの子ヨシュアであった。モーセのしもべとして仕えてきたヨシュアにとって、モーセとともに歩んできた荒野の40年の旅路は決して平坦ではなく、むしろ困難な道であった。

いま約束の地カナンを前にして、ヨシュアに語られた主の言葉は、ヨルダンを渡り、その後に約束の地に入ることであった。ヨシュアがその指揮を取り、イスラエルの民といっしょにカナンの地にに入ることは決してたやすいことではなかった。担いきれない重荷を背負うことであった。

荒野の旅でヨシュアは何を学んだのか。信仰の指導者モーセと主との関係をそして交わりを学んだのではないだろうか。

ヨシュアは、これから一人、神の前に立つ。神の意志をどのように受けとめていくのか。

わたしたちもここから主のメッセージをいただきたい。

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本日の昼食はスパゲッティ3種!
①ミートソース ②たらこバター ③和風なめたけ和え
ハーフ&ハーフも三種盛りも可能でした♪

来週1/12(日)の宣教予定者は三上章先生です。


by hiraoka-joyful | 2020-01-05 13:38 | トピックス  

12月29日19年(賛美礼拝)今日の糧

本日は賛美礼拝でした。
この一年間もさまざまな出来事がありましたが、どんな状況でも神様がともにいてくださることを再確認した一年間でもありました。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
(コリント人への第一の手紙 10章13節)

「脱出の道」は逃げ道ではなく、新しい進路、新たなチャレンジの機会だと思います。
そしてまた、独りの道ではなく、神様が用意してくださった道、イエス様がともに歩んでくださる道です。

新しい年にどのような日々が待っているのか、期待をもって祈りつつ歩んでいきたいと思います。

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☆今日は賛美礼拝でしたが「讃美歌って教会の人しか歌ったらだめなの?」なんてことはありません101.png
「気になる讃美歌がある」「歌ってみたい讃美歌がある」など、お気軽にお声がけください。(み)


by hiraoka-joyful | 2019-12-29 12:56 | トピックス  

12月22日19年 今日の糧

宣教:「マルコ福音書のイエス (9)~クリスマスの光源」
宣教者:三上章先生
聖書箇所:マルコによる福音書 1章35~39節

クリスマスイルミネーションの美しい光輝きは,ヨハネ福音書のイエスにさかのぼる。そこではイエスは世の暗闇を照らす光である。さらにそれは,マタイ福音書における星の光に照らされた家畜小屋に安らかに眠る赤ちゃんのイエスにさかのぼる。そしてそれは,ルカ福音書の主の栄光の輝きにつつまれたイエスでもある。

さらに最古の福音書であるマルコ福音書にまでさかのぼらなければならない。
そこには赤ちゃんのイエスはいない。大人のイエスからはじまる。洗礼者ヨハネのもとで修行したイエスは,やがて独自の運動を展開する。病気で困っている人たちを温かい心で介護し,その家族・友人を精力的に支援した。休むひまがないほど愛の実践に没頭していた。そのままでは燃え尽き症候群的状態に陥ってしまう。

イエスは,自己管理する術を心得ていた。それを示すのが35節の言葉である。原文のとおりに訳してみる。
「そして(イエスは)非常に早く(なお)暗いときに起きて,(家から)出て,ひとけのない場所に赴いた。そしてそこで祈り続けた。」

イエスは何を祈ったであろうか。だれのために祈ったであろうか。私のような者のためにも祈ってくださったと,私は確信している。
それを思うと,とても歌いたくなる讃美歌がある。In the Garden(新聖歌197番)である。

The Garden とは,イエスが祈ったひとけのない場所。
それはこんにちどこに見つけることができるか。そこかしこではなく,ほかでもなく私の心がその場所である。そこに赴くとき,私が見つけるのは,クリスマスに合わせていうならば,赤ちゃんのイエスである。私の小さな心には相応の大きさである。イエスが眠るその飼い葉桶のある家畜小屋,それは私の心である。マゴス(東方の博士)たちが高価で心づくしのプレゼントをささげた家畜小屋,それは私の心である。私もマゴスたちにならって,イエスに心づくしのプレゼントをささげなければならない。

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来週12/29(日)は賛美礼拝です。

2019ジョイフルクリスマス
12/24(火)18:00~ クリスマスイヴ礼拝

by hiraoka-joyful | 2019-12-22 13:06 | トピックス  

12月15日19年 今日の糧

宣教:「たがわず羊飼いへの報せ」
宣教者:大久保法幸執事
聖書箇所:ルカによる福音書 2章8~20節



キリスト生誕について、マタイとルカの記述を比較してみます。
例えば、マタイでは誰にでも目にとまる「星」によって報せが告げられたのに対し、ルカでは天使が羊飼いたちの所へ狙いを定めて現れました。ルカ福音書では一貫して、貧しい人々、虐げられた人々にスポットをあてるのです。

前段、ローマ帝国の勅令による「人口調査」が出て来ることが暗示的なのですが、ルカ福音書は誰ひとり「神の人口調査」からもれていない、いやむしろ、ここに神の「偏愛」というものを見ることができます。ルカ福音書だけに取り上げられた、ザアカイ、放蕩息子などの譬えが典型です。
ルカが伝えるのは誰も、どんな人でも、ひとりひとりを漏らさず「あなたも」ではない、「あなたこそ」神様に愛されている、そこから始まります。

そして、あなたが神に特別愛されているように、実に、あの人も、この人も神様に愛されている。それを識る人々に、すなわち「御心にかなう人」に平和が、平安がある。それが実る地の上で、天上で神の栄光が示されます。

※この場をお借りして、12月4日、アフガニスタン、ジャララバードで医療活動のみならず、荒地の国土回復など尊いお仕事に文字通り、粉骨砕身、身を捧げていた医師 中村哲兄弟が殺害されました。彼は福岡市出身のバプテスト、クリスチャンであり、彼の座右の銘はキリスト誕生を天使が述べる「神がともにおられる(マタイ1:23)」でした。クリスマスを目前に全く理不尽なことから、残虐な行為によって、かけがえのない尊い命を失いました。満身の悲しみを表明します。天に召された彼の命を決して忘れず、無駄にしないことを遺された者たちの使命としたい。

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来週12/22(日)の宣教予定者は三上章先生です。

2019ジョイフルクリスマス
12/22(日)10:30~ クリスマス礼拝
12/24(火)18:00~ クリスマスイヴ礼拝



by hiraoka-joyful | 2019-12-15 13:40 | トピックス