カテゴリ:トピックス( 295 )

 

7月2日17年今日の糧

天と地の間にあるもの

創世記1章26節―31節

 

唯一の神が自分を我々と表現するのは、天地を創られた神に、語りかけ応答する性質があるからです。それは将棋になぞらえることが出来かもしれません。盤上に全く動きがない時でも、棋士は、何時も頭の中で盤上の駒を動かしています。彼等は何十手も先に何が起きるかを、自分が先手となり、同時に後手となって頭の中で画像を浮かべているのです。それと同様に、神がこの世界を創造された時も、神は語りかけ、応答しながら創造の業を進めたのです。始めの一言、「光あれ」と言われた時には、神の中ではこの宇宙、空、海 大地は出来上がっていました。しかし人間の創造は、神の創造の業の中では全く局面が変わった出来事でした。

 人間の創造は、神の中の計り知れない語りかけと応答によって生み出されたのです。そこから導き出された神の決心は、我々にかたどり、我々に似せて人を造る。ということでした。 ですから神に似せられた人間は、語りかけ応答することができる者として造られました。人間だけが、神との間に「あなたと私」という関係を持つのです。

人を神の似姿に造る。それは、状況次第で悪手となる一手でした。その一手が打たれたことで、神が創造された全てのものが、再び虚しくなる危険性があったのです。実際、これほどの愛を受けて創造された人間ですが、素晴らしい善いものとして生きられない弱さを持っているからです。人間は互いに傷つけ合い、時に殺し合う面を持っています。人間は人を愛することよりも憎む面を持っています。けれど私たちがそのことに絶望するために、この聖書が記されたのではありません。

私たち人間は神の呼びかけを無視する罪の性質を取り入れてしまった。だから、本来神の似姿として与えられた対話や応答する性質も失われてしまいます。それは大変孤独なことです。けれども、その私たちに、「あなたは神の形、似姿だ。神はあなたの近くにいる。」という慰めと喜びを聖書が語っているのです。

あなたの耳にこの神の決心の声が聞こえていますか?

そして創世記のこの言葉を、ことばだけでなく具現したのが、私たちが信じるイエス・キリストです。イエス・キリストは天地を創られた神が打たれた究極の一手です。この地上に静かに置かれた神の愛そのものの方が、創世記のこの言葉をこの地上に実現させてゆくのです。


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    教会にある絵本です。
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  今日の冷やしラーメンは絶品でした


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by hiraoka-joyful | 2017-07-02 13:49 | トピックス  

ジョイフルガーデンの花

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ブドウはまだですね
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                  雨でちょっと倒れてしまいました。      
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                   サクランボも色付きはじめました。

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by hiraoka-joyful | 2017-06-30 12:12 | トピックス  

6月25日17年今日の糧

祝福のお土産

ローマ152229

パウロの喜びは、イエス・キリストのことを知らなかった人が、パウロの宣教を通してイエス・キリスト出会うことです。彼等がイエス・キリストに出会い、その地域の教会が福音宣教の中核にまで育ったのを見届け、パウロは、新しい福音宣教の場所を求めていました。

パウロが以前伝道してきたところに留まれば、新しい苦労は背負い込まなくてもよいのです。しかし、パウロにとってイエス・キリストの福音をまだ聞いていない人々がいる場所があるのは苦しみでした。だからパウロは勇気を持って新しい場所を目指そうとしました。そしてパウロはスペインへ福音を運んでいくために、ローマ教会が道の駅になることを願っていました。ローマに行って、そこで一息ついてから、ローマの信徒達の祈りに見送られて旅を続けようとしたのです。

しかしパウロはすぐにはローマに行けないことを、この手紙で伝えます。パウロはまずエルサレムへゆく事を最優先にしました。彼を導いてきたのは、イエスが約束した聖霊です。パウロはその愛に促されて働き続けました。聖霊はパウロに2つの使命を与えていました。

1) 異邦人に福音をくまなく伝えること。

2) エルサレムにいる聖徒に奉仕すること。(援助金を持ってゆく)

教会はエルサレムから始まりました。そのとき、人々は自分たちの財産を売って、共同生活をしました。その資金で沢山の貧しい人々を助け、また多くの伝道者を助けたのです。それは財政的に彼らを窮乏状態に陥れてしまったのです。

マケドニアとアカヤのキリスト者達はエルサレム教会を援助する大切さをよく理解していました。援助それはコイノニアです。聖書の他の個所では「交わり」と翻訳されている言葉です。聖書が語っている交わりとは、「腹を割って、言いたいことが言える仲」というような交わりではありません具体的に分け与えることによって共有する交わりなのです。それをパウロはキリストの祝福が充満するという言葉で表しています。パウロはキリストの祝福という土産をもってローマに行きたいと願ったのです。


                       

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       パウロはエルサレムで捕まり、ローマに護送された

                     

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     奉仕日に焼きそばを作って食べました。熊本のスイカも


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by hiraoka-joyful | 2017-06-25 13:44 | トピックス  

6月18日17年今日の糧

愛をお返しします

ローマ14112

パウロにとっては、福音宣教について益になること、人々が至福に生きる事が最も重要でした。それ例外のことは、すべて小さな事でした。

 ですから、どれほど弱く、未熟で、訓練も不十分なキリスト者でも、パウロは彼等が、イエス・キリストの恵により成長する過程で、真の福音に関係ないことから解放されることを希望していたのです。

だから、人々を裁き、論争の対象とし攻撃する人々に向けて、パウロは、彼等を受入よと命じています。

なぜなら福音の内容そのものより、信仰生活の解釈の違いがどの時代でも、教会の中の裁き、分裂を生み出すからです。これは互いに愛するようにと伝えられたイエス・キリストの言葉と対極にあることです。

 パウロは、キリスト者の生活の様々な事柄は、救われるためではなく神に感謝するためだと伝えます。

人を気にかけるのではなく、イエス・キリストを気にかける生活、これがクリスチャン生活です。パウロは、私たちに他者に向ける目を神に向けてゆくように伝えます。なぜなら、私たちは私たちの全てを知る真実な神に対して、今自分が行なっていることに対して申し開きをしなければいけないからです。感謝の心で生きるキリスト者は、多くの善い行いの実を結んでいます。そして神の裁きの時イエスさまから、「よくやった、忠実な良い僕だ。」とほめられます。特に意識していない善行、誰にも評価されなかった善行に多くの報いがあるのです。その時私たちは、かつて預言者が聞いた主なる神の声を聞きます。

『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』イザヤ4523

その時、私たちは主の前に屈み、主を褒め称えるのです。

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今日は父の日でした。

                   

                     

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                    豚丼の水菜が味と色のアクセント


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by hiraoka-joyful | 2017-06-18 13:21 | トピックス  

6月11日17年今日の糧

愛をお借りします

ローマ13810

「隣人を自分のように愛する」この誡めは、モーセが教え、イエス・キリストが明らかにしました。そしてパウロはこの手紙で強調して取り上げています。なぜ自分への愛が他者への愛の基準になるのでしょうか? それは誰でも自分を愛することを本能的に知っているからです。もちろん様々な状況の中で、人間が持っている自分を愛する力が失われ、自分に悪しきことを行う場合もあります。けれど、それは実は人の本質に反しているのです。言い換えれば、真実な神が与えた人間の本質の中に自分を愛する愛が、すでにあるのです。

では、それはどのような愛でしょうか?そのヒントは10節にあります。愛は隣人に悪を行いません。その言葉をこのように言い換えてみると、よく分かります。「私の愛は私に悪を行いません」。真実な神は、本来人が自分自身を傷つけるようにしていないのです。

しかし他者を愛することは、本能の中にありません。それは互いの関係性の中で育てられるものです。しかし残念なことに私たちは、それを育むことが大変下手なのです。

  神が与えた誡め=律法は 隣人に悪を行わないことです。そして私達が、まず神が私達に与えた本来の力、自分を愛する力、自分を大切にする力を用いて他者に接するときに、ただ隣人に悪を行わないだけでなく、隣人を助け、隣人を活かすことが出来るのです。

私たちは、私たちの隣人が能力をもつから愛するのではありません。私たちの隣人が、私たちにあれこれしてくれたから愛するのでもありません。私たちは神がその手で造り上げた者たちです。だから私たちは自分の体を大切にするし、自分を愛します。同様に私たちは神を愛するから、そして私を愛するから、神が造られた私の隣人をも愛するのです。

そしてキリスト者には、この生身の体と別にもう一つの体が神から与えられています。生身の体は、どれほど大切にしてもやがて朽ち果てていきますが、もう一つの体は、朽ち果てることはありません。その体は教会です。イエス・キリストがその命をもって贖い、奴隷状態から解放した一人一人の集まり、自分とイエスの体である教会を私たちは特別に愛するのです。

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今日はウガンダからお客様が来られました。

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           ウガンダのルーとハヤシライスです。

          美味しかった


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by hiraoka-joyful | 2017-06-11 13:56 | トピックス  

ペンテコステとジョイフルチャペル

ペンテコステとジョイフルチャペル

6月4日はペンテコステでした。これは2000年近く前に、イエス・キリストが十字架に架かりその後復活したことを目撃し、イエスの言葉を信じて祈っていた人々に起こった出来事です。 彼等がイエス・キリストの証人になるために、真実な神が助けを与えました。それはイエス・キリストの全てを明らかにする聖霊です。その時から彼等は、日々イエス・キリストを証し、それを聞いた人々がその証を受け継いで、2000年間途絶えることなく、世界中にイエス・キリストを信じる人々の集い(キリスト教会)が産まれ続けているのです。私たちの平岡ジョイフルチャペルもその様な証人の言葉(聖書)と、聖霊の助けの中で産まれました

平岡ジョイフルチャペルは1963年白石区に設立されました(かつての白石バプテスト教会)。伝道開始して54年になります。初代の牧師T師は、高齢の今も機会があればイエス・キリストを証しておられます。1991年里塚に引っ越し、名前を平岡ジョイフルチャペルと変更しました。それから26年です。昨年は壁や屋根の塗装を塗り直しました。

  真実な神の助けがあるから、支え会い共に歩み続けているのです。

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今年もすずらん咲きました。


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by hiraoka-joyful | 2017-06-06 16:49 | トピックス  

6月4日17年今日の糧

礼拝の中で恵を受けよう

ローマ12章15


  私たちの礼拝は、旧約聖書に記されている出来事に基づいています。旧約聖書の礼拝は犠牲の動物を捧げること、これが祭儀の中心でした。これはイスラエルの民が奴隷生活から解放された出エジプトの出来事に起源があります。では、その礼拝はどこで行われるのか?

パウロは神の憐れみが働く場所、そこが礼拝の場所だと、私たちに伝えています。

次に礼拝の中で何を捧げるか。それをパウロは伝えています。旧約聖書では聖別された動物の遺骸が捧げられました。では、キリスト者の礼拝は何をささげるのでしょう。

そもそも「礼拝」という言葉をローマ人は、「腰をかがめる」とか「ひれ伏す」という意味あいを持った語を使っていました。 ところが、パウロは「過越祭、除酵祭の規定を守りそれに仕えること」を意味している言葉をつかいました。それはエジプトの奴隷生活から解放された事を記念して守り続けている祭儀です。キリスト者にとっては、イエス・キリストが与えて下さった主の晩餐です。イエスが自分の体を 生き身の聖なる 神のお喜びになる捧げ物として差し出した。もったいなさ過ぎるこの命の食事を取ること。それが私たちの礼拝の始まりです。

礼拝の中心はイエス・キリストが私たちのために、はらわたが痛み、ついにはその命さえ与えて下さった事を覚えることです。 その時、礼拝をする者は神の前に自らをそのまま差し出します。 そのことを、パウロは「自分自身を生け贄として献げる」という表現で語っているのです。

あなたは今、どのような状況で生きていますか。たとえこんなはずではなかったと、苦しむ現実すら、憐れみ深い神はそのままに変貌させられる。それは具体的な事柄です。すると私たちはこの世界に埋もれて、がんじがらめになってしまうのではなく、私たちが生きているこの社会で、神に変えられた新しい生活を過ごす。私たちの日々の生活の中に、私たちは必ず神の働きを見つける。私たちはその喜びと感謝の中で、人間が通常では知り得ない神の意志を判別出来るようになります。

      神の喜び~私たちの礼拝

      神の善し~私たちの礼拝

      神の完全~私たちの礼拝

だから私たちは神に変貌させられたこの生身の「私」を携えて礼拝に来るのです。

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過越祭の食事(教会では食べていません)

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                 主の晩餐式 パンとブドウ汁

                

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                    お昼ご飯


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by hiraoka-joyful | 2017-06-04 13:35 | トピックス  

5月28日17年今日の糧

接ぎ木された枝が実るとき

ローマ111924

ローマに住むキリスト者達はユダヤ人キリスト者のように旧約聖書の知識もありません。また他の教会のように明確な指導者もいませんでした。パウロの言葉で言えば、まるで野生のオリーブの樹のようでした。

 彼等は自分達の罪深さによって行き詰まり、そこで神を求めイエス・キリストを信じたのです。ですからローマにいる多くのキリスト者はイエスの歴史的背景も神の契約もよく分からなかったのです。そんな彼等にパウロは懇切丁寧にこの手紙を書いたのです。

そしてパウロが最も伝えたかったのは、ユダヤ人=イスラエルと異邦人は互いを活かし合い、互いに神の救いに預かるため存在することです。

イエス・キリストを受け入れることは真実な神が関わり続けた、ユダヤ人=イスラエルの背景や歴史、彼等が大切にしてきた文化を全て捨てる事ではありません。むしろ長年かけて神が慈しんだオリーブの樹である彼等と神との契約の上にイエス・キリストによる新しい契約が接ぎ木されたのです。そしてこの新しく育ってゆくイエス・キリストの幹だけが実を結んでゆくのです。独自の文化を保つことで、離散してもなおユダヤ人で在り続けた人々も、神の新しい契約であるイエス・キリストを受け入れるとき、その幹に繋がってゆく希望をパウロは持っているのです。

イエスを救い主と信じた異邦人キリスト者にパウロがきつく戒めていることは

1)高ぶるな

2)神を畏れよ

3)神の慈愛に留まれということです。

慈しみはクリストテース=親切という言葉で、クリスチャンという言葉と音が似ています。パウロ達の時代クリスチャンは親切でいつくしみ深いと語呂合わせのように言われていたのです。かれらは他者の側に立って、思いやり深く親切に生きる人々でした。異邦人キリスト者は自分達の富を用いてパウロ達を助け、また貧しいユダヤ人キリスト者を助けました。けれどやがて教会の中で民族的な対立が起き、異邦人キリスト者社会は広がり、権力を持ち始め、諸国に散らされていた小さなユダヤ人コミュニティを目の敵にし始めます。イエス・キリストが十字架に架かったのは自分の罪のためなのに、それを民族の問題にすり替えます。それがヨーロッパにおいて長いユダヤ人迫害につながり、やがてナチスによるユダヤ人大虐殺にも繋がったのです。

 第2次世界大戦後、キリスト教会ではこの歴史への悔い改めが始まりました。そして今ユダヤ人迫害の先鋒を切っていたカトリック教会は彼等との対話を始めているのです。

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今イスラエルに植えられてるオリーブの木

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                キャベツが良い彩りです。


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by hiraoka-joyful | 2017-05-28 13:27 | トピックス  

5月21日17年今日の糧

鳥・魚・動物・植物と待っている希望

ローマ81825

聖書が伝える苦しみ

苦しみとは、この世界を創造された神が人に定めた賜物=プレゼントです。

そのプレゼントは大きく3つあります。

 それは

1.苦しんで子どもを産むこと。

2.額に汗して働くこと。

3.死んで土に帰ることです。その中には病や老いも入っています。

人がなんとかもう神を求め、自分達からその声に応えるように、

真実な神は、人間に定めを与えたのです。そして人が神を思うこのきっかけが、より強いものになるため、神は苦難をちりばめたのです。

同時に神が創った被造物全体もうめき苦しんでいると聖書は伝えます。

被造物全体は最初に神に造られた善いものとしての姿を保てない。

人間の手によって被造物が神であるかのように祭られる。

自分達の役割りを知る被造物を虚しくさせている。

ある人には全く聞こえないその音が、パウロの耳には届いていました。パウロはそこにこそ希望を聞いたのです。


そしてパウロはもう一つの呻きの声言い換えればもう一つの希望の声を聞いています。それは、神に叛いて土塊に帰るだけの虚しい存在になった人のために、十字架で呻き苦しんでくださったイエス・キリストの声ですこのイエスの呻きに、人間よりも速く深く反応しているのが全ての被造物です。私たち一人一人のために呻き苦しんでくださっているイエス・キリストがいるから、この世界全体の苦しみは虚しくならない、それは新しい世界を生む苦しみの呻きだとパウロは聞き取っているのです。


私たちは、この世の人生を、肉体の弱さや欠けの中でうめき苦しみつつ生きています。けれど同時に神に向かって「おとうさん助けて」と祈ることが既に許されています。その祈りの中で、欠けだらけの自分の人生にも神が父として私たちに関わっている確信を見つけるのです。そこに私たちは神と人が喜び合いながら生きる小さな神の国の現実を見つけるのです。その小さな神の国の現実あるから、私たちがまだ目にすることが叶わない神の国の完成を、全ての被造物と共に待ち望むことが出来るのです。

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様々な具が入ったあんかけ丼です。


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by hiraoka-joyful | 2017-05-21 13:36 | トピックス  

5月14日17年今日の糧

バプテスマを受けよう

ローマ6章1-5

バプテスマにおいてだけが、イエス・キリストが成してくださった恵の業、十字架の死と葬り、甦りを私たちが追体験する時、場となります。

イエス・キリストと共に

水の中に沈められた時。=古い罪の生活に死んだ

水の中から現れたとき甦った。=新しい(フレッシュな)命を受けた

バプテスマは、私たちの過去を覆い、将来を変える。そして神の命へと向かわせます。

神は、バプテスマを授けられた一人一人を、キリストの十字架の死にあずかって罪に対して死んだ者として見ています。

本来バプテスマは全身を水に浸されるという仕方で行っていました。バプテスマを授かるとは、私たちがイエス・キリストにすっかり浸され、キリストと一つになることです。それは接ぎ木をするというイメージです。丁度イエスが自分を指してブドウの樹だと表現していますが、私たちはそのブドウの樹に接ぎ木される苗です。ブドウの樹であるイエス・キリストに繋がる全世界の25億人のキリスト者は、イエス・キリストと同じ芽吹きをし、同じ葉を付け、同じ実を実らせます。バプテスマによって、水の中でイエス・キリストの死を体験したものとして植えられたからです。イエスの十字架の死と同じ姿で植えられた苗木である私たちは、復活したイエス・キリストと同じ姿の木へと育っていくのです。バプテスマはその成長への出発点です。 私たちはもはや奴隷のように誰かに指図されて生きること、また明日の希望もなく生きることを止めます。自由な者としてイエス・キリストの助けによって自分の人生を切り開き歩むのです。

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母の日のごちそうです。

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by hiraoka-joyful | 2017-05-14 15:34 | トピックス