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3月25日18年今日の糧

信仰告白をした人

マルコ15章33~47節


イエス・キリストの十字架を見つめた人達の姿が記されています。

1)百人隊長

彼はイエスの処刑を執行する責任者でした。じっとその死刑の様子を見ていました。そして彼の目の前でイエスが息を吐き出し、死んでゆきました。すると百人隊長の口から、彼が今まで考えもしなかった言葉が生まれます。なぜなら、彼のところにもイエスが吐き出した神の愛が届いたからです。この百人隊長は聖書も読んだ事もない、神殿で礼拝したこともない、何十回と人の死を見ていた人です。どんなに残酷な十字架刑を見ても、彼の心は冷静でした。その人がイエスの十字架をじっと見つめ続けたとき、イエスが吐きかけた聖霊が彼に伝えたのです。

「本当に、この人は神の子だった」

 彼はこの事を教会の中で多くの人々に証し続け、その証が福音書に書かれています。

2)アリマタヤのヨセフ

 ヨセフはイエスを有罪に定めた最高法院の議員でした。彼もイエスの十字架の側に来ていました。最初は救い主を語る罪人が処刑されるのを確かめるためだったかもしれません。ヨセフもまたイエスの十字架をじっと見つめ続けていました。すると彼は今まで考えもしなかった行動をおこします。勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。

 自分が死刑にと定めた人が死刑囚の遺体を引き取る。それはそれまでのヨセフ議員にはありえないことです。しかしイエスが息を吐き出した瞬間、彼の元に届いた聖霊が彼にイエスを埋葬するように促すのです。ヨセフは東奔西走し、イエスを埋葬します。彼のこの行動も又百人隊長と同様、イエスこそ神の国を開いた方だと告白していたのです。

イエスが葬られたことは、教会の信仰においても大切なこととして告白され続けました。イエス・キリストの救いは、私たちの苦しみの表面を掬い取ることではありません。墓に下る底ざらいの救いなのです。そして教会に集う者達は、このイエスの底ざらいの救いに預かっているのです。

3)多くの女性達
ここにはイエスの十字架と埋葬を見つめた多くの女性たちの名前や姿が記されています。彼女たちもやがて教会の中でイエス・キリストの証人となるのです。彼女たちは後のキリスト教会で、イエスの愛の教えに従い、具体的に人々に仕えるものたちになってゆきます。謙遜な愛、受け入れる愛、仕える愛、ともに苦しむ愛、生み出す愛をもって、彼女たちはイエスを証したのです。


今日は奏真くんの献児式でした。幼子のために祈りました。


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     次週はイースター礼拝です。共にイエスの復活を喜び感謝しましょう。


by hiraoka-joyful | 2018-03-25 13:37 | トピックス  

3月18日18年今日の糧

接吻で殺す~それでもイエスは愛された

マルコ144352

福音書の描写は、イエスの最後の時間を次々に記しています。ひるがえって数時間前は、過ぎ越しの食事を弟子達と食べました。この時イエスは、自分が差し出すイエス・キリストの命を取り、消化しなさいと、パンを裂いて弟子たちに与えました。真実な神が恵みによる新しい契約をする。そのしるしとして、イエスは、弟子たちに杯を与えました。

そののち、ゲッセマネの園で、真実な神を「アッバ、父」と呼びかける祈りが、弟子たちに与えられました。

そしてイエスは、自分が弟子として選び、3年に渡って共に生きたユダと彼が導いて来た捕縛者達の前に向かって行きます。彼等は権力者に言われるがまま、恐怖の中でイエスに暴力で向かいます。そしてイエスを犯罪人として扱います。けれどイエスは自分を剣や棒で傷つける者にさえ自分を委ね、自分を渡し与えて行かれます。48節の捕えると言う言葉は、抱え込む、把握するとの意味があります。マリアがイエスを身ごもった時にこの言葉が使われています。

ルカ1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

イエスはただ、イエスを憎む人の手に渡され、捕えられたのではありません。この出来事は、イエスご自身が彼らの腹の中にインマヌエルとして、抱え込まれたことをあらわしているのです。

その時、弟子達は恐怖心のあまり逃げ出しました。けれどイエスは自分を捕らえる者、裏切る者、自分から逃げ出す者を責めてはいません。イエスは前もって弟子達にこう伝えています。

マル14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。

14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
イエスほど、私達の事を知っている方はいません。私達が持っている愚かさや誤魔化しも、すべてを知っています。そして私達がどれほど権力に弱いか、どれほど逆境に弱いかも知っています。ホンの些細なことで意気消沈することを知っています。小さなトラブルで躓くことを知っています。それをイエスは、私達が言い連ねる様々な理由での躓きとしないで、イエス自身が躓きを与えたと言われるのです。私達自身に責任を取らせるのでなく、イエス自身が責任をとる。そして私達をいつでも待ち受けると約束しているのです。

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by hiraoka-joyful | 2018-03-19 13:26 | トピックス  

3月11日18年今日の糧

今日礼拝の中で、東日本大震災から7年を経ての課題について、祈り合いました。


その香りは誰のため

マルコ14章3節―9節

「わたしはいつも一緒にいるわけではない」。

これは、イエスがまもなく十字架につけられて殺され、弟子らのもとから引き離されることを意識した言葉です。そう語ることによってイエスは、自分の頭に香油を注いだ女性の愛と献身が、目の前に迫っている自分の死と結びついた埋葬の準備だったと、受け止めています。

彼女は黙って、自分の大事にしている香油を全て注いで、「イエスは何にも代えがたい方」と、その行為によって告白しました。 それだけでなく、彼女が奇しくも行ったイエスのための埋葬の準備は、その後に起きたイエスが復活した出来事にも繋がってくるのです。十字架からイエスが降ろされたとき、安息日への時間が迫っていたので、人々は香油でイエスの亡骸を整えることが出来ませんでした。

私は先日I兄弟の納棺式を行った際、始めて納棺師という方に会いました。その方々は亡骸を整えることが仕事です。洋の東西を問わず、亡骸を丁寧に整えて始めて死者は安息の眠りにつくと考えるからです。それは死んだ者への畏敬の念でしょう。ではイエスの亡骸はどうだったか。イエスの亡骸は肉が裂かれ、血で汚れていました。けれど直ぐに布にくるまれアリマタヤのヨセフの墓に納められました。ですから安息日が終わった朝、それを見ていた数名の女性達がイエスを納めた墓に急いだのです。彼女達の思いからすれば、イエスの埋葬はまだ完成していないのです。

ところが、実はイエスの埋葬は既に完成していました。イエスに精一杯のもてなしを行ったこの女性が、奇しくもそれを完成していたのです。それ故に、イエスの復活の出来事にも何ら妨げがなかったのです。イエスは血みどろの姿で復活されたのではありません。彼女の行いが、イエスを前もって整えたのです。彼女の行いはそれほどのことでした。福音書の中では、彼女の名前は書かれていません。しかしこの場面を後の教会は何度も証し、全ての福音書の中にその姿を記します。

 イエス・キリストの十字架と復活によって始まった神の国の中で、イエス・キリストを信じる者達はどう生きてゆくのか、この出来事が明らかにしました。それは、イエス・キリストの愛に促がされた人々の行為を止めることは誰にも出来ないということです。たとえ世間の目から見たらお人好しで損な生き方でも、無駄だと言われ理解されなくても、自らの器を壊して持てる宝を注いでゆく生き方をしてきたキリスト者が、この女性の後に、世界中で星の数ほど生まれてきたのです。

                   

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by hiraoka-joyful | 2018-03-11 14:47 | トピックス  

兄さん姉さん(私達のために十字架をって負ってくださったイエスの愛と、兄弟姉妹を覚えて)

マルコ8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。


兄さん姉さん(ぞうさんの曲で)

兄さん、姉さん

十字架背負うのね

そうよ イエス様が背負うから


姉さん 兄さん

誰が好きなの

あのね イエス様が好きなのよ

               

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by hiraoka-joyful | 2018-03-11 12:30 | うた 花  

3月4日18年今日の糧

奉仕の心得

マルコ12章35節~44

今日は斎藤克弥執事の宣教でした。現在老人介護施設で働きながら、賛美の賜物が用いられ、様々な賛美奉仕をしておられます。


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2月24日 THE WAYのコンサートで

また今日は主の晩餐式がありました。

平岡ジョイフルチャペルでは毎月第一主日に行っています。

それには4つの意味があります。

1, イエスの死を覚えるために

イエスは今から2000年も前に死んだ方です。イエスの死はどのような意味があるでしょうか。それは、神様と人の新しい契約のための死です。

イエスキリストを信じる者は、神様になんのお返しが出来ないのに、イエスキリストのゆえに罪をゆるされて、神の子の一人になる。と約束されています。主の晩餐を、記念として行うのは、自分達がこの新しい約束の中に生かされていることを確認することです。

2,感謝の祈りをするため

信仰者として日々生きる中で、イエスに祈り求める事が毎日のように起こってきます。その中でイエスが私たちの友として私たちの人生に関わっておられることを実感します。その一つ一つを感謝してゆくために、記念するのです。

3,告げ知らせるため。

 イエスキリストの死を目撃した人、その死の意味を伝えられたのはほんのわずかな人達です。けれどその死後、かれらはイエスの言葉通り、圧倒的な神の命に与ります。そしてこの記念の出来事を行い続け、イエスの死の意味を知らせ続けます。

4,希望に生きるため

また、この記念のパンとぶどう汁は私たちがイエスによる命に生かされている希望の印です。そして今は小さな希望かもしれないけれど、いつかはイエスに直に会って喜ぶ事ができる大きな希望のひな型なのです。

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豊かな食卓を感謝


by hiraoka-joyful | 2018-03-04 13:37 | トピックス