3月11日18年今日の糧

今日礼拝の中で、東日本大震災から7年を経ての課題について、祈り合いました。


その香りは誰のため

マルコ14章3節―9節

「わたしはいつも一緒にいるわけではない」。

これは、イエスがまもなく十字架につけられて殺され、弟子らのもとから引き離されることを意識した言葉です。そう語ることによってイエスは、自分の頭に香油を注いだ女性の愛と献身が、目の前に迫っている自分の死と結びついた埋葬の準備だったと、受け止めています。

彼女は黙って、自分の大事にしている香油を全て注いで、「イエスは何にも代えがたい方」と、その行為によって告白しました。 それだけでなく、彼女が奇しくも行ったイエスのための埋葬の準備は、その後に起きたイエスが復活した出来事にも繋がってくるのです。十字架からイエスが降ろされたとき、安息日への時間が迫っていたので、人々は香油でイエスの亡骸を整えることが出来ませんでした。

私は先日I兄弟の納棺式を行った際、始めて納棺師という方に会いました。その方々は亡骸を整えることが仕事です。洋の東西を問わず、亡骸を丁寧に整えて始めて死者は安息の眠りにつくと考えるからです。それは死んだ者への畏敬の念でしょう。ではイエスの亡骸はどうだったか。イエスの亡骸は肉が裂かれ、血で汚れていました。けれど直ぐに布にくるまれアリマタヤのヨセフの墓に納められました。ですから安息日が終わった朝、それを見ていた数名の女性達がイエスを納めた墓に急いだのです。彼女達の思いからすれば、イエスの埋葬はまだ完成していないのです。

ところが、実はイエスの埋葬は既に完成していました。イエスに精一杯のもてなしを行ったこの女性が、奇しくもそれを完成していたのです。それ故に、イエスの復活の出来事にも何ら妨げがなかったのです。イエスは血みどろの姿で復活されたのではありません。彼女の行いが、イエスを前もって整えたのです。彼女の行いはそれほどのことでした。福音書の中では、彼女の名前は書かれていません。しかしこの場面を後の教会は何度も証し、全ての福音書の中にその姿を記します。

 イエス・キリストの十字架と復活によって始まった神の国の中で、イエス・キリストを信じる者達はどう生きてゆくのか、この出来事が明らかにしました。それは、イエス・キリストの愛に促がされた人々の行為を止めることは誰にも出来ないということです。たとえ世間の目から見たらお人好しで損な生き方でも、無駄だと言われ理解されなくても、自らの器を壊して持てる宝を注いでゆく生き方をしてきたキリスト者が、この女性の後に、世界中で星の数ほど生まれてきたのです。

                   

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# by hiraoka-joyful | 2018-03-11 14:47 | トピックス  

兄さん姉さん(私達のために十字架をって負ってくださったイエスの愛と、兄弟姉妹を覚えて)

マルコ8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。


兄さん姉さん(ぞうさんの曲で)

兄さん、姉さん

十字架背負うのね

そうよ イエス様が背負うから


姉さん 兄さん

誰が好きなの

あのね イエス様が好きなのよ

               

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# by hiraoka-joyful | 2018-03-11 12:30 | うた 花  

3月4日18年今日の糧

奉仕の心得

マルコ12章35節~44

今日は斎藤克弥執事の宣教でした。現在老人介護施設で働きながら、賛美の賜物が用いられ、様々な賛美奉仕をしておられます。


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2月24日 THE WAYのコンサートで

また今日は主の晩餐式がありました。

平岡ジョイフルチャペルでは毎月第一主日に行っています。

それには4つの意味があります。

1, イエスの死を覚えるために

イエスは今から2000年も前に死んだ方です。イエスの死はどのような意味があるでしょうか。それは、神様と人の新しい契約のための死です。

イエスキリストを信じる者は、神様になんのお返しが出来ないのに、イエスキリストのゆえに罪をゆるされて、神の子の一人になる。と約束されています。主の晩餐を、記念として行うのは、自分達がこの新しい約束の中に生かされていることを確認することです。

2,感謝の祈りをするため

信仰者として日々生きる中で、イエスに祈り求める事が毎日のように起こってきます。その中でイエスが私たちの友として私たちの人生に関わっておられることを実感します。その一つ一つを感謝してゆくために、記念するのです。

3,告げ知らせるため。

 イエスキリストの死を目撃した人、その死の意味を伝えられたのはほんのわずかな人達です。けれどその死後、かれらはイエスの言葉通り、圧倒的な神の命に与ります。そしてこの記念の出来事を行い続け、イエスの死の意味を知らせ続けます。

4,希望に生きるため

また、この記念のパンとぶどう汁は私たちがイエスによる命に生かされている希望の印です。そして今は小さな希望かもしれないけれど、いつかはイエスに直に会って喜ぶ事ができる大きな希望のひな型なのです。

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豊かな食卓を感謝


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# by hiraoka-joyful | 2018-03-04 13:37 | トピックス  

2月25日18年今日の糧

希望を見つめて生きた人

ロマ5章1-8節

今日の礼拝宣教は16日早朝主なる神の御許に召されたI兄弟を偲んでのものでした。

イエス・キリストがこの世に来られて送ったその人生は、試練の連続でした。イエスは赤ちゃんの時にすでに時の権力者に殺されそうになりました。それをなんとか逃れた後もこの方はとても貧しい生活をして育ちました。14歳頃に父が亡くなり、その若さでイエスは母と兄弟たちの生活を支えなければなりませんでした。30歳になるまでイエスは貧しいナザレで大工として働いて家族の世話をしたのです。その後、父なる神からとても大切な使命を頂きました。それは他人を愛し抜いて、その愛によって本当の神の愛を人々に明らかにする使命でした。イエスは人が嫌がる病人や、職業の人達とも分け隔てなく友になりました。聖書の事をとても丁寧に教えました。そうやって真実な神の愛がどれほどのものかを、皆に明らかにしたのです。けれどそれだけでしたら、2000年も前の出来事ですから、やがてどんな親切な行いも皆から忘れられます。 ましてや1960年も経って、北海道に住んでいたI青年が、イエス・キリストを信じてキリスト者として生きる決心をする事は起きなかったでしょう。

なぜ、I兄弟はイエス・キリストを信じたか、これはイエス・キリストの生涯における最後の出来事に深く関わっているのです。それはイエス・キリストが私たち全ての人間のために十字架にかかって死んだことです。キリスト教会に必ず掲げてある十字架、これはイエス・キリストが33歳の時にその上で死んだ場所です。こんな死という出来事に繋がる気味の悪い物を掲げるキリスト教会を変わった場所だと世間では思うかもしれません。 でもイエス・キリストがこの十字架の上で死んだことには神の大きな意味があるのです。

1) 神が人間に近づくために、人間の悪心を罰する必要があった。その罰をイエス・キリストが人間の代わりに受けた。

2) イエス・キリストが究極の苦しみを受けて下さることによって、人間の苦しみに希望が与えられた。

イエス・キリストの十字架は、キリスト者にとって、人を苦しめる試練も別の意味合いを与えました。それは希望に繋がるドアを開ける鍵だと聖書はいいます。だから、「この試練を通して、神はどのように働いてくださるのか。」と苦しみの中で聖書に問い続けるのです。そしてキリストにあって神が私たちを愛してくださるとはどのような意味なのか、を理解するのです。そのことが、I兄弟が生涯において生かされた神の愛です。

                               

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                       復活の命にある希望

                           

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# by hiraoka-joyful | 2018-02-25 13:18 | トピックス  

I兄弟とのお別れ

イエスの遺言

マルコ1042節から45

  16日早朝、私達平岡ジョイフルチャペルが白石教会であった50年前からのメンバーが天の御国へ旅立たれました。I兄弟は愛娘が10歳の時に我が娘への遺言という一文を記されました。

 このI兄弟の娘さんへの愛に溢れた遺言を読んだとき、私は同時にマルコによる福音書に記されたイエス・キリストの遺言を思い出しました。そしてイエス・キリストがI兄弟に与えた人としての道標を、愛する娘に残されていたと知りました。

 それは兄弟が、このイエス・キリストの言葉の中に最上級の愛が詰まっていることを知っていたからです。この言葉はイエス・キリストが自らの死が近づいていることを予告した後に、イエスが愛した人々に語りました。イエスは彼らが、イエス・キリストを通して神の愛を受け止める事を望み見ていたのです。イエスはこの事をイエス・キリストを信じる者へ伝えました。私達一人一人が担う自分の生活の場がここにあらわされているのです。

10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

それは、自分が敬遠してしまっている身近な人を、イエスが示された愛によって愛することかもしれません。また自分の隣人や家族に仕えてゆくことかもしれません。形はどうであれイエスに従うこと時、私達は自分勝手に生きる姿勢が崩され、時には命をすり減らす出来事に耐えてゆくからです。

そのことはまず、イエス・キリスト自身が身をもって行ってくださった事です。私たちはイエスの後ろを、自分が愛する者のために仕えて生きて始めて、神の愛がどれほど大きいか知るのです。 でも時には、どれほど人に仕えても報われないことがあります。それでも私たちが気落ちしないように、疲れ果てしまわないように、イエスが私たちを励まし続けてくださることを経験します。

 ですからこのキリストの言葉に促されるようにしたためたI兄弟の遺言の中には、このキリストの愛に出会ったI兄弟ご自身が、この遺言で伝えた事をまず率先して行ってゆく覚悟が秘められていました。その姿を通して、娘さんに仕えて生きる事の喜びや、愛に出会ってほしい願いが溢れています。

 病床生活において、様々な痛みを、忍耐をもって受け、イエス・キリストと共に歩んでこられた兄弟は、イエス・キリストの愛を完全に受け止め、平安の中に生きておられました。私達はこの兄弟に出会えた日々を心より感謝します。(牧師)

         

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  ひまわりが好きな方でした。


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# by hiraoka-joyful | 2018-02-18 16:08 | トピックス