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9月22日19年今日の糧

マルコ福音書のイエス (5)~社会の底辺の視座から見つめなおす

マルコ福音書 11415節            三上 章師

 イエスは故郷のガリラヤの大地にしっかりと足を踏み入れた。ガリラヤは,ユダヤのエルサレム住民からいなかと見られた。今日でもいなかを軽く見る風潮がある。他方,いなかを大きな誇りとする人もいないわけではない。イエスはその一人であった。

ガリラヤ帰還の目的は,「神のエウアンゲリオン」を伝えるためであった。通常,福音と訳されるこのギリシャ語は,本来は,国王のもとに戦勝などの吉報を届けた伝令に与えられた報酬を意味した。福音はその根底に,何かいいもの,すばらしいもの,ためになるものという意味を含んでいる。マルコ福音書の文脈では,イエスがこれから行い続ける,病気,貧困,差別に苦しむ人々への寄り添いと支援,それが福音である。   

 神のエウアンゲリオンにおける「神の」の意味は,「神のたまわる」である。その神とは慈悲の神である。仏教的な言い方をすると,苦しむ人を見て見ぬふりができない,助けずにはいられない仏の心である。

 1980年頃,私がメルボルンに住んでいたとき,近所の人たちが,泣いているベトナム難民の女性を私が住む牧師舘に連れてきた。知り合いのユダヤ人がいうには,「三上牧師は日本人だから,なんとかなるだろうと思いお連れしました。」彼女は中国系の方だったので,漢字による筆談でやりとりをすることができた。名前はハさんで,夜間の英語学校の帰り,道に迷い泣いていたのである。これをきっかけに,彼女のご家族と懇意になった。ご主人と3人のお子さんという家族構成である。

 やがて交流が深まるにつれて,ハさんはどのようにしてオーストラリアにたどり着いたかを,話してくれた。小さな舟に大勢の人が乗って,ベトナムを出たが,途中,半数の人々が死んだ。あと少しでオーストラリアに上陸というとき,舟が暗礁に乗り上げ,全員が海に投げ出された。ハさんは3人の子どもと一緒だった。浅瀬なので,二人の子どもなら抱きかかえてなんとか上陸できそうであったが,3人は無理である。ハさんはこう思ったそうである。「だれかを助けて,だれかを助けないことはできない。子どもたちと一緒に死のう。」その瞬間,大きな波によって海岸に打ち上げられ,助かった。

 「子どもたちと一緒に死のう。」これが母親の愛かとジーンときた。それは,イエスの父なる神の愛に連なるものであろう。イエスが信じたのは,そういう神であり,イエスもそのような人であった。


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     ボートピープル


      

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   ホテルのビュッフェのようですね。


# by hiraoka-joyful | 2019-09-22 13:08 | トピックス  

9月15日19年今日の糧

マタイ5.3

「ケセン語できく、イエスさまからのよき知らせ」  小野有五師

イエスさまの話されていたコトバは、ガリラヤのコトバであるアラム語でした。首都のイエルサレムから見れば、北東の辺境の地であったガリラヤは、日本でいえば、はるか「道の奥」であった東北地方のようなものだったかもしれません。そうであるなら、東北地方のコトバの一つである「ケセン語」で、聖書を、とくにイエスさまの言葉を訳したほうが、よりぴったりするのではないか。 そのように考えたのが、自ら「ケセン語」(大船渡地方のコトバ)で育ったカトリックのお医者さん、山浦玄嗣(はるつぐ)さんです。山浦さんの訳では、同じ個所が以下のようになっています。

  

「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ア 幸せだ。

  神様の懐に抱かさんのア  その人達(ひだち)だ。」 

ギリシャ語では、前半は、

「マカリオイ ホイ プトーコイ トー プネウマティ」となっています。

 「プトーコイ」というギリシャ語は、「~に欠けている」という意味にもなる言葉です。それを、山浦さんは、さらに具体的に、「頼りなぐ、 望みなぐ 心細い人」と訳されたように思います。

 3節の後半は、もともとは、「天(神)の支配に入る」という意味です。山浦さんは、それを「神さまの温かい懐に入ること」と訳されました。

イエスさまのもとに集まってきた群衆は、ほとんどが貧しい人たちだったでしょうから、イエスさまのよびかけは、まず、「貧しい人(こそ)が幸せだよ!」というメッセージで始められたのかもしれません。貧しいということだけで、世間からは、まるで屑のように、存在などしていないかのように扱われてきた人たち。その人たちこそが、しあわせなのだ、神さまに抱かれるのはその人たちなのだ、という言葉が、イエスさまの最初のメッセージだったともいえます。

そして、マタイによる福音書に従えば、それはたんに経済的な貧しさだけではなく、さまざまな理由から、元気を無くして、心がへなへなになっている人、自分にまったく自信をもてない人、身のまわりにも、頼るべき人や権力をもたない人、まわりから除け者にされ、踏みにじられる人という意味になります。そして、そういう人たちにこそ、神さまはまっさきに手をさしのべて救ってくださるのだ、というのが、イエスさまの最初のメッセージだったのではないでしょうか。

それが「よい知らせ」でなくてなんでしょう?


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山浦さんの訳 一部
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豊かな食卓に、皆の笑顔


# by hiraoka-joyful | 2019-09-15 13:29 | トピックス  

9月8日19年今日の糧

飢饉の中で神を見た人~飢えの中で餓(かつ)えない

ルツ114節~22節  日高龍子姉

  

ルツはナオミのゆくところ、ナオミが住むところ、ナオミのどん底、二人の息子の死んだ時、苦しい苦しいと嘆くとき、その全ての場面に共におられる神を見ました。

ルツはその神の名を「アドナイ=わたしがいるよ」と言われる神だと告白しています。このルツの告白こそ、真実な神がどのような方かを知らなかった人が、彼や彼女と生きて下さる神を見つけた時の告白です。

  これは初代教会の時代の異邦人クリスチャン達の告白でもあります。

彼ら、彼女らは、ルツと同じ方法で真実な神に出会い、その方は「わたしがいるよ」と言われる神だと告白してきたのです。

  

イエスを救い主キリストと最初に告白した教会は、

十字架で死んだイエスが、生ける神として共にいてくださると信じ、告白する。

信仰生活の厳しさを、ナオミがルツにしたように、きちんと明らかにしている。

教会に来たら楽しいだの、仕事も家庭も勉強もうまくいくだのとは言っていません。

1迫害されるとはっきり伝えています

マタイ511

2)貧しい彼らをさらに搾取し、奪い、迫害する者がのうのうと生きていると伝えています。

マタイ5:44 5:45

3)この世界に思い煩いの種は尽きないと伝えています。

マタイ 6:34

4)イエスの弟子になることは、自分を捨て自分の十字架を負うことだと伝えています。

マタイ 16:24

5)そして苦しい苦しいと思い煩い、毎日の生活の中で涙を流している。それでも共に集いイエスの名を呼ぶ者達の中に、イエスがいて下さると伝えているのです。

マタイ18:20

  ルツは、苦しい苦しいと嘆くナオミの傍らに「わたしがいるよ」と言う神を既に見てしまった。だからどのような未来がそこに待ち受けているかわからないけど、姑ナオミと共に生きると決意しています。

  初代教会に集った、マタイ福音書編成時代の異邦人キリスト者も、ルツ同様に、今まで知らなかったこの神「わたしがいるよ」と傍らに居続ける神を見て、その方をしたって教会の礼拝に集い続けました。たとえキリスト者になることで、現実の苦しみや負うべき十字架が重くなったとしても、この集いから離れたくないとすがったのです。


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美味しかったです


# by hiraoka-joyful | 2019-09-08 22:05 | トピックス  

9月1日19年今日の糧

聖書箇所:イザヤ書44:1~8
宣教題:『 無から生み出される新しさ 』

石橋大輔師(札幌バプテスト教会牧師)

現代社会は、様々な「新しさ」に溢れています。そのような社会においては、より「新しい」ものが登場すれば、ちょっと「古く」なったものには、誰も目を向けようとはしなくなります。少しでも「新しい」ものが、その「新しい」間だけもてはやされる・・・。しかし、そのようにやがて「新しくなくなる」ようなものを、本当の意味で「新しい」と言えるのでしょうか。
イザヤは「見よ、わたしは新しい事をなす」との主の宣言を人々に伝えました。その「新しい事」とは、「荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」ことだと言います。それは、やがてもっと新しいことが出てくるというようなものではなく、まさに何もない状態から生み出されていく「新しさ」です。かつて川が流れ、草が生えていたかもしれない荒野や砂漠で、日照りで水が得られない間、地下に潜んでいた命が、水を得た瞬間一斉に芽吹いていく。そんな命の芽吹きに表される、本来の「新しさ」です。なぜなら、「あなたを造り、あなたを胎内に形造」った方である主こそが、その「新しい事」をなされるからです。そして、かわいた干からびた地に水が流れ草が生え育つように、主に霊と恵みとを注がれるイスラエルの子らは豊かに潤されていくというのです。
そのようにイザヤが主の言葉を語った相手とは、大国バビロンによって国を滅ぼされ、捕囚の民として敵国に連れ去られたイスラエルの民でした。彼らは、いつしか自分たちが解放されること、祖国に帰還することへの希望を失っていました。しかし、イザヤは、やがては新しい勢力に取って代わられるバビロンという国を恐れるのではなく、無から新しいものを生み出すことのおできになる唯一なる主にこそ信頼せよ、と語るのです。そして、イスラエルの人々は苦難を通らされながら、主との本来の関係に立ち返らされていく、いや、更に深い関係へと誘われていくのです。
イスラエルの人々にとって、この主のほかに神はないということは、決して初めて耳にする「新しい」情報では当然なかったはずです。しかし、その言葉を困難の極みにおいて耳にしたからこそ、飢え渇いた心で聞いたからこそ、彼らは主のなされる「新しい事」にこそ希望の光を見出していったのです。


               

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     バビロン兵によって陥落する神殿
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     梨もみずみずしく美味しそう


# by hiraoka-joyful | 2019-09-01 13:16 | トピックス  

8月25日19年今日の糧

マルコ福音書のイエス (4)~孤独を能動的に生きる

マルコ福音書 11213

三上 章師

「追い出す」(12節)とは,激しい行為です。霊である方は,慈しみ深くあると同時に厳しくもあります。イエスが洗礼の喜びにひたり続けることを許さず、ただちに無人の場所に追い出しました。「イエスは,その無人の場所で、40日間、サタンによって吟味されていた。そしてイエスは野獣たちと一緒であった。そして使者たちがイエスに給仕していた」(13節)。

 孤独に相当する英語として,「ロンリネス」(loneliness)あるいは「ソリテュード」(solitude)があります。ある人の説明によりますと、ロンリネスはいやおうなしに押しつけられた受動的な孤独、ソリテュードは自分から進んで手に入れた能動的な孤独です。

 私がオーストラリアのメルボルンに住んでいたときに、ルーマニアのバプテスト教会牧師リチャード・ウォンブラントさんに巡り会いました。この人は,チャウチェスク独裁政権の下で、14年間投獄され,そのうち3年間は独房に監禁されました。その間聖書を取り上げられ、紙も筆記用具も与えられませんでした。彼は毎晩一つの説教を作り、それを語りました。いつか解放されるときのために,作った説教を全部暗記しようとしました。そうするために、説教の主な部分を歌にしました。それらの歌を暗記し、何度も繰り返しました。彼はしばしば拷問にかけられ,大量の薬物を投与されました。そのときには,説教を忘れるのですが,しかし薬物の効果が消え去ると,また説教が全部よみがえってくるのでした。

 こうしてやがて解放されたとき、ウォンブラント牧師は、実に350の説教を暗唱しておりました。それらのいくつかが、著書『独房の中の説教』の中に収録されています。

 なぜこれほどの説教を作ることができたのでしょうか? 聖書をほとんど暗唱していたからです。心に貯えられた神の言葉が、14年に渡る投獄の期間、彼を力強く支えたのでした。


          

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   なんて豊かな食事でしょう。秋の気配が既に


# by hiraoka-joyful | 2019-08-25 19:06 | トピックス